【第9回】『英雄』 | マイナビブックス

掌編小説「言葉」シリーズ

【第9回】『英雄』

2014.11.01 | 岩村圭南

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 交差点で出会った小さな救世主の話。

英雄


 近頃世の中せちがらい。ぎすぎすし過ぎて息が詰まりそうだ。心に余裕がないからか。些細な事ですぐ向きになる。一言謝ればすむものを。逆切れして却って傷口を広げてしまう。人との関わりを避けるのが最善の策。それでは世の中一向によくならない。何か打つ手はないものか。私ごときが考えても妙案など思いつくはずがない。
 そう呟き、溜め息一つ。
「はーあ」
 雨模様でなければ、昼食後決まって近所を散歩する。ぶらぶらしながら憂さを晴らすかのようにぶつぶつ独り言。ぶらぶらぶつぶつ。それが私の日課でもある。
 今日も見慣れた景色を眺めつつ、ゆっくり歩いて目的地の公園へ向かう。杖をつくほどではないが、若い頃の無理がたたってか、最近右膝が思うように曲がらない。
 通りの向こう側にある公園へは、私が『クラクション交差点』と名付けた十字路の横断歩道を渡って行く。歩道橋もあるが、階段の上り下りは膝への負担が大きい。しかも遠回りだ。勢い道幅がことのほか広い交差点を横切らざるをえない。足の運びが悪いと間に合わずに信号が変わり、クラクションを鳴らされる。耳障りな音に急き立てられたら誰だっていい気はしない。思わず怒鳴り返したくもなる。それが人情というものだ。
「こっちの身にもなってくれ。好き好んでゆっくり歩いているわけじゃない。右膝の調子が芳しくないんだ」
 そう言って、その場に座り込み、べらんめい調で「おいおい。ちょっとくらい待ってくれても罰は当たらねえだろうが。それほど忙しいのか。てやんでい、このべらぼうめ!こっちとら江戸っ子でい!ぶつけるなり、しくなり、勝手にしやがれってんだ。このすっとこどっこい」と啖呵を切りたいところだが、そんな気力も気骨もない。
 右手で手刀を作り、何度か空(くう)を切り、頭をぺこぺこ下げ、平身低頭の体(てい)で一歩一歩先に進む。我ながら情けない。
 頭の中であれこれ考えているうちにクラクション交差点のすぐ手前まで来ている。信号は青。見ると残り時間を示す小さなランプの数が少ない。次の青で渡った方が無難だろう。呼吸を整えて待つ。
 信号が赤から再び青に変わる。勢いよく歩き出す。少し前から感じていた。やけに右膝が痛む。途中で一息入れたいところだが、今日は何が何でも赤に変わる前に渡りきりたい。
 おっと、点滅し始めている。急がなければ。まずいぞ。間に合わないかも……。車が横一線に並び、エンジン音を唸らせスタートの合図を今か今かと待ちかまえている。
 あーっ、赤。車には青のゴーサイン。間髪をいれずにプー、プップツプー。思いやりの『お』の字も知らない輩だ、と悪態をつきながら、右手で待ったをかけようとしたまさにその時。黄色い帽子を被り、バッグを肩から袈裟懸けにした子供が疾風(はやて)のように現れた。先に渡りきっていた幼稚園児の集団の中から一人、私のところに駆け寄ってきたのだ。
 とにかく急いで渡らなくては。そう思った瞬間、その小さな体で精一杯両手を広げ、車の前に立ちはだかった。大きな声で何か叫んでいる。私が歩道にたどり着くのを見届けると、ぺこりと頭を下げ、小走りで戻ってきた。
 あどけない顔をした救世主に「ありがとう」とお礼を言い、左胸にピンで留めてある名札に目をやる。英雄?
「君の名前は『えいゆう』なのかい?」
「違うよ」
 よく見ると右横に『ひでお』のふりがな。
「でも、おじちゃんにとって君は『えいゆう』、ヒーローだな」
「違うってば。ひ・で・お!」
 歯切れよくそう言うと、二度、三度手を振りスキップしながらその場を立ち去った。
 あの子の言葉は、ドライバーたちの耳には届いていなかったかもしれない。私にははっきりと聞こえていた。
「だめだよ。そんなにプープーならした。おとしよりはたいせつにしないと」
 わざわざ私のために駆けつけ、車の前に仁王立ち。心ない大人たちを一喝し、通せん坊してくれていたのである。「おとしよりはたいせつに……」か。周りからそう言われているのだろう。その言葉をまさに捨て身で行動に移すとは。見上げたもんだ。ああいう子がいるなら、これから先の日本は大丈夫!
 疾風のように現れて、疾風のようにスキップしながら去って行く。頼もしくもあり、可愛いくもある背中に向かって、右手を口の端に添え声をかけた。
「よっ、英雄、日本を頼んだぜ!」(了)

 楽しい週末を。Have a nice weekend.