「お前たちはたるんでる!」関西を変えた畠山ショック 井上九段×脇八段×畠山鎮七段緊急座談会 ~将棋世界 2018年10月号より|将棋情報局

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「お前たちはたるんでる!」関西を変えた畠山ショック 井上九段×脇八段×畠山鎮七段緊急座談会 ~将棋世界 2018年10月号より

将棋世界 2018年10月号掲載「井上慶太九段×脇謙二八段×畠山鎮七段緊急座談会 くるか、新関西黄金時代! 元奨励会幹事が語る光り輝いていた天才少年たち」の一部をご覧ください。

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井上慶太九段×脇謙二八段×畠山鎮七段緊急座談会
くるか、新関西黄金時代!
元奨励会幹事が語る光り輝いていた天才少年たち

 

久保利明王将が27歳でA級入りしたのが2003年。そのあと、関西の二十代棋士がA級に上がるのは2016年の稲葉陽八段まで13年空いた。ところが、そこから豊島将之棋聖、糸谷哲郎八段が立て続けに二十代でA級入り。B級1組でも菅井竜也王位が誕生し、斎藤慎太郎七段も昨年の棋聖戦に続き、王座戦の挑戦者になった。いまは関西の若手がトップにひしめく時代。そうした状況が出現したのはなぜか。藤井聡太七段も交え、天才棋士たちの少年時代のエピソードを、関西奨励会幹事を長く務めたお三方にたっぷりお聞きした。
【聞き手・構成】鈴木宏彦 【座談会撮影】池田将之

 

関西を変えた畠山ショック

―皆さんの奨励会入会時の幹事はどなたでしたか。

脇  私は昭和50年(1975)の入会で、入会試験のときの幹事が坪内利幸先生(八段)で、入ったときは森安秀光先生(九段=故人)でした。

井上 私は昭和54年の入会で、幹事は田中魁秀先生(九段)です。1981年にいまの関西将棋会館が建ってから、幹事が二人体制になったはずです。それまではお一人でした。

畠山 僕は昭和59年入会。幹事は森信雄先生(七段)と東和男先生(八段)でした。

―関西将棋会館が建ってからの約10年は、関西の黄金時代でした。有吉道夫九段、内藤國雄九段の両巨匠をはじめ、A級に5人の関西棋士がいたこともあったし、1991年には谷川浩司三冠に福崎文吾王座と南芳一王将で、関西五冠の時代もあった。その関西の勢いが急速に失われていくのは1992年からです。羽生世代が台頭して、次々とタイトルを取っていく。その象徴が1996年の羽生七冠制覇ですね。その後の関西は、長く低迷時代が続きました。脇さん、これはなぜでしょう?

脇  僕らの世代がだらしなかったからです、すみません(苦笑)。それと、やっぱり羽生世代が強すぎた。関西はあの世代の層が薄いんです。

井上 京都出身の佐藤康光さん(九段)は関西奨励会所属でしたが、途中で東京に行ってしまったのが痛かったなあ。

畠山 関西の羽生世代といえば、村山聖さん(九段=故人)と阿部隆さん(八段)ですが、羽生さんが七冠になった頃は、まだ東京の情報が伝わってくるのが遅かった。東京の棋譜が大阪に送られてくるのが、対局から3週間くらいたってからなんです。そんなところでも不利感を感じました。

井上 あの頃は、東京に強い人が集まっていました。村山さんや久保さんが東京に行ったのもやむを得ないと思う。ただ、関西は余計に寂しくなりましたね。

脇  羽生世代の活躍と同時に、関西は上も下も低迷期に入りました。奨励会にも有望株はいたはずなんだけど伸び悩んだ。あの頃は三段リーグの対戦で関東の三段が関西に来ると、2勝して帰るのが当たり前で、1勝1敗だとがっくり肩を落として帰る。そんな状況でした。

畠山 関西の三段が8人いると、1人指し分けであとは全員負け越し。そんな時代でしたね。

脇  関西でも、このままじゃいかんという声はあったんですよ。それで、理事だった東さんから相談を受けて、畠山さんを奨励会幹事に推薦したんです。若くて情熱があり、彼なら沈滞ムードを変えてくれると思いました。ただ、畠山さんは当時まだ五段でしたからね、パートナーには無理を言って、現役バリバリの八段だった井上さんにお願いしました。

畠山 僕が幹事になったのは2001年です。その2、3年前からインターネットの普及もあって、師匠とあまり接点を持たずに奨励会に入ってくる子どもが増えました。僕も脇さんも井上さんも、師匠の道場の手伝いをしながら勉強をした。それが奨励会員の修業で、そこで礼儀作法も身に付けたんです。でも、その後入ってきた子たちは、師匠の道場を手伝う機会なんてほとんどない。師匠との接点が少ないから、礼儀作法を身に付ける機会がないんです。それなら、奨励会幹事が教えるしかないと思いました。

脇  3月の奨励会で幹事の引き継ぎがあって、見習い幹事が挨拶をしました。そこで畠山さんがいきなり奨励会員たちに向かって、「お前たちはたるんでる」と怒鳴りつけたんです。先輩幹事もいたし、その場の空気が凍りつきました。あれで奨励会の空気が一変した。

畠山 それまでの奨励会員は、対局が終わるとすぐ雑談なんです。控室でもテレビで野球は見る、競馬は見る。麻雀の待ち合わせのために将棋会館に来る。だから朝夕のミーティングで、そんな奨励会員は一喝しました。将棋会館に来て、将棋の対局を見ないでどうするんだ。まず挨拶をしろ。先輩の対局は正座して見ろ。エレベーターに乗るときは、先輩を先に乗せて先輩を先に降ろせ。記録を採って棋譜を渡すときは、手前側を向こうにしろ。そんな細かいことまで、全部いちいち言いました。言うからには、こちらも覚悟を決めました。毎日、関西将棋会館に行って、奨励会員たちを見る。それから自分も強くなる。奨励会員たちより先に自分が強くなってやる。そういう気持ちでした。

井上 私が幹事になったときは37歳。まだ将棋だけで頑張りたいという気持ちもあったけど、畠山さんがやるなら一緒にやりたいと思った。畠山さんの情熱はよく知っていましたからね。でも、いきなり一喝には驚いた(笑)。

脇  畠山ショックですね。それは棋士たちにも影響しました。棋士室の奨励会員たちがテレビを見ていると叱られるから、棋士もおちおちテレビなんか見ていられない。自分たちも勉強するかということになる。みんな朝の9時、10時から研究会をやるようになった。棋士室の雰囲気ががらりと変わりました。

井上 昔はね、棋士室は憩いの場だったんです。テレビ見て、世間話するのが当たり前だった。そこに奨励会員たちもいた。だから、彼らだけが悪かったわけじゃないんです。

畠山 ベテランの先生にはずいぶん文句を言われました。俺らの居場所がなくなったじゃないかと。でも、それは我慢してもらうしかないと思った。

脇  棋士もみんな変わりました。山崎君(隆之八段)なんか、いつも午後2時頃、寝ぼけマナコで棋士室に現れていたのが、朝10時に来て将棋を指すようになった。関西全体が変わったんです。

 

 

座談会はここから、関西奨励会を巣立っていった佐藤天彦名人、豊島将之棋聖、糸谷哲郎八段、稲葉陽八段、菅井竜也王位・・・の奨励会時代と現在についてや、藤井聡太七段の話、そしてこれからプロを目指す少年少女やその親御さんに伝えたいことへと続きます。

全文は将棋世界 2018年10月号でお読みいただけます。

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将棋世界編集課(著者)