「東西のホープが激突」(前編)―佐藤天彦名人、稲葉陽八段、原点の一戦|将棋情報局

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「東西のホープが激突」(前編)―佐藤天彦名人、稲葉陽八段、原点の一戦

将棋世界で平成21年から22年にかけて実施した、特別企画「真剣勝負! 東西対抗フレッシュ勝ち抜き戦」の第5戦で、佐藤天彦五段と稲葉陽四段が激突した。両者21歳。記事には「いずれ大きなトーナメントの頂上で戦う2人だろう」とある。
第75期名人戦で熱戦を繰り広げているライバル2人のスタート地点となった本局の、将棋世界観戦記を紹介する。

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将棋世界で平成21年から22年にかけて実施した、特別企画「真剣勝負! 東西対抗フレッシュ勝ち抜き戦」の第5戦で、佐藤天彦五段と稲葉陽四段が激突した。両者21歳。記事には「いずれ大きなトーナメントの頂上で戦う2人だろう」とある。
第75期名人戦で熱戦を繰り広げているライバル2人のスタート地点となった本局の、将棋世界観戦記を紹介する。「将棋世界」平成22年1月号より。観戦記・鈴木宏彦







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「1局も勝てないとチームに申し訳ないので、とりあえず1勝できてホッとしています」
矢内理絵子女王を破った稲葉陽四段は心からほっとした顔でそう言った。関西の代表として女流棋士と戦うプレッシャーは相当なものがあったようだ。そのプレッシャーに耐え、稲葉は関西チームに貴重な1勝をもたらした。
ここまで里見香奈倉敷藤花が村山慈明五段に勝つという事件はあったが、とにかくこれで、関東と関西が2勝2敗ずつ星を分け合う状況になった。ここからあらためて4人の若手強豪同士の勝ち抜き戦が始まるわけである。
 

フリークラス入りを蹴った男


さて、今回関東の3番手として登場するのは佐藤天彦五段である。
福岡県福岡市出身、中田功七段門下の新鋭。奨励会の途中までは関西奨励会に在籍していたが、三段時代に関東奨励会に移籍した。
佐藤天彦五段といえば、なんといっても、フリークラス入りを蹴った男として知られる。04年度の三段リーグで佐藤は通算2度目の次点を取り、フリークラス棋士としてプロ入りできる権利を得た。しかし、これを放棄したのである。権利を放棄してただの奨励会員として奨励会を続行する道を選択したのだ。その後06年の三段リーグで2位に入り、今度は見事、順位戦参加の棋士としてプロデビューすることになる。
デビュー後の活躍はご存知の通り。08年の第39期新人王戦で早くも初優勝を果たし、この年の将棋大賞新人賞に輝いた。現在は村山慈明五段や戸辺誠五段と並ぶ関東若手のホープと見られている。
それにしても、なぜ佐藤はフリークラス入りを蹴って、奨励会にとどまる道を選択したのか? これまでにもいろいろ書かれているが、今回あらためて佐藤本人と師匠の中田功七段に話を聞いた。
佐藤「どちらの道を選択しても、そこで自分の棋士人生が決まってしまうわけではない。結局はそれからの自分の頑張り次第だと思ったので、師匠のアドバイスもあって奨励会に残る道を選択しました。不安がないわけではなかったが、どんな結果になっても、それは自分で責任を取るしかないと思っていました」
中田「僕も悩んで制度のことをいろいろ考えた。次点を2回取ったとき、天彦はまだ16歳。結局は、その若さでフリークラスに行って星勘定をするより、同年代のライバルたちと正々堂々と戦う道を選んだほうがいいと考えた。最終的に天彦が四段になってくれたから、その選択が正しかったともいえるけど、もし四段になれなかったらと思うとぞっとする。よく期待に応えてくれたと思う」
ここでプロ制度のことをあれこれ書くつもりはないが、16歳の佐藤三段が棋士人生に関わる重大な決断をしたという事実だけは強調しておきたい。
果たして今後、同じような棋士が現れるかどうか。

  ◇    ◇    ◇

 東西対抗フレッシュ勝ち抜き戦第5戦
 ▲五段 佐藤天彦
 △四段 稲葉 陽
 持ち時間各2時間・切れたら1分将棋
▲7六歩△3四歩 ▲2六歩△8四歩
▲2五歩△8五歩 ▲7八金△3二金
▲2四歩△同 歩 ▲同 飛△8六歩
▲同 歩△同 飛 ▲3四飛△3三角
▲3六飛△2二銀 ▲5八玉△4一玉
▲3八金(第1図)
 

ハンカチ


中田師匠からは佐藤の少年時代の話も聞いた。
中田「同じ福岡出身なので僕の弟子になったが、小さいときから気持ちのしっかりした子だった。礼儀正しくて、みんなに好かれるタイプ。奨励会三段まで福岡に住んでいたので練習相手がなかなかいなかった。僕も会うとよく指したけど、それだけじゃダメだよとはいっていた。いまは幸い関東の先輩たちに可愛がられている。才能はあるし、これからもっと強くなるはずだと思っている」。
11月4日、東京の対局である。30分以上前に将棋会館の中に入っていた佐藤だが、対局室には開始2分前まで現れなかった。
対局前の会話は一切なし。ほとばしる気合の中で勝負が始まった。佐藤の胸にはシルクのハンカチが光っている。おしゃれにもこだわりがあるのだろう。
後手になった稲葉は得意の横歩取りに誘導した。先手の佐藤は最近流行の▲5八玉型に組む。
まずは、研究勝負の開始である。



 第1図以下の指し手
△8四飛▲8七歩 △2四飛▲2八銀
△5一金▲7五歩 △8四飛▲8六飛
△8五歩▲5六飛 (第2図)

佐藤新手の▲5六飛


佐藤は平成10年奨励会入会。稲葉は平成12年入会。当初は同じ関西奨励会に所属していた2人だが、入会が2年ずれていることと佐藤が福岡から大阪に通っていたこともあって、当時の接点はほとんどなし。両者が三段で並んでから同リーグで2度だけ対戦があったそうだ(1勝1敗)。もちろん、公式戦での対局はまだない。
先手の▲5八玉~▲3八金はヒネリ飛車志向の作戦だ。この日の控室にはスーパー敦史君こと宮田敦史五段が現れ、詳しい序盤解説をしてくれた。
宮田「▲3八金型で△8五飛と引いた将棋が平成11年の羽生―森下の王将戦であったが、これは▲3三角成△同桂▲8八銀(A図)とされて、後手の動きが難しくなった。先手はそれでなくても▲7七桂と跳ねて、飛車を7、8筋に使う構想を狙っているので、この場合の後手に△8五飛型は合わないのです」



それで稲葉も△8四飛と引いた。以下先手の▲8六飛に後手が△8五歩と打った局面までは前例のある展開だが、そこで佐藤が新手を指した。
第2図の▲5六飛だ。



 第2図以下の指し手
△6二銀▲3六歩 △5四歩▲3三角成
△同 銀▲3五歩 △5五歩(第3図)
 

新手を巡る後日談


第2図の1手前。後手△8五歩までの前例は4局あり、そのいずれの将棋も先手はここで▲7六飛と指している。▲7六飛は後手から△7四歩を突かせない意味で、8一の桂を使わせないぞという主張である。
例えば、今年10月に行われた先手郷田真隆九段と後手井上慶太八段のA級順位戦は▲7六飛以下△6二銀▲3六歩△9四歩▲3五歩△2四飛▲2六歩△8四飛と進んで難しい戦いになっている。
それを佐藤は▲5六飛と指した。見たことのない手を前にした稲葉は40分も考えた。持ち時間2時間のうちの40分だから、これは大長考である。
稲葉「なるほどと思った。▲5六飛で▲7六飛だと、△6二銀▲3六歩△2四飛▲3三角成△同桂▲8二角となったときに△5五角(B図)と打つ反撃がある。これは後手よし。しかし、本譜の▲5六飛に△6二銀▲3六歩△2四飛とするのは▲3三角成△同桂▲8二角とされて、△5五角の反撃がない。△6二銀▲3六歩に△5四歩は決断の一手。△5四歩で△7四歩は▲7六飛と回られて難しいと思った」





この佐藤新手には後日談がある。
この対局が終わって大阪に帰った稲葉が翌日昼休みに関西将棋会館に顔を出すと糸谷哲郎五段がいる。
糸谷「昨日、将棋世界の対局をしたんやて? どんな将棋やった?」
稲葉「それがこんな将棋で、▲5六飛の新手を指されて感心した」
糸谷「何、そんな手があるんか?」
この日、糸谷は朝日杯将棋オープン戦の対局中で午前の部に勝ち、午後からは豊島将之五段との対局が控えていた。
その豊島五段との対局に、糸谷はいま教わったばかりの佐藤新手をぶつけたのである。
「さっき教わったので(笑)。教わったからには指さないと」という糸谷のユーモラスな感想がある。
その糸谷―豊島戦は第2図の▲5六飛以下△6二銀▲3六歩△5四歩▲3五歩△5五歩▲3六飛△5三銀▲3七銀△4四銀▲6八銀△4五銀▲7六飛△2四飛▲2七歩△6四飛▲6六飛(C図)と進んで先手の糸谷が快勝した。



ネットの解説には、「▲5六飛は糸谷の新手」と書かれたが、実際には糸谷は本局の経過を知っていたので、△5四歩に対する▲3五歩が本当の糸谷新手ということになる。
これについてあとで糸谷は、「佐藤―稲葉戦は先手から角交換したが、角を交換しないほうが後手陣の動きが制約されると思って本譜の順を選んだ」と説明してくれた。この感想には説得力がある。本局の先手は第3図の△5五歩でやや困った意味があるからだ。




 第3図以下の指し手
▲3六飛△2四飛 ▲2七歩△4四銀
▲6八銀△4五銀 ▲9六飛△3三桂
▲3七銀△9四歩 ▲7六飛△3六歩
(第4図)


 

予定外の▲3六飛


第3図では当然、▲2六飛と回るのが佐藤の予定だった。ところが、それには①△2四飛と②△2三歩の2手段が後手にある。
①△2四飛▲同飛△同銀▲8四飛△9五角▲2四飛△5九飛▲4八玉△2九飛成▲2一飛成△3一金(D図)。これは先手も命がけの戦い。



②△2三歩▲3七銀△4四銀▲4六銀△8六歩▲同歩△5六歩▲同歩△8六飛▲8七歩△5六飛▲5七歩△7六飛(E図)。これも先手の模様がいいとはいえない。



つまり、先手は△2三歩と冷静に受けられても自信がないのに、△2四飛の強手まで成立するかもしれない。「これではばかばかしくて、指す気になれなかった」と佐藤はいうのである。
その気持ちは分かる。だが、△2四飛に▲2七歩と受けた本譜も2筋の力関係が逆転した。実戦はこの負担がじわじわと先手に忍び寄ってくる。
控室の宮田五段は「△3三桂に▲8二角はないのか?」と検討していたが、それは△5六歩▲同歩△3六銀▲9一角成△4五桂▲8一馬△5七歩(F図)となって先手自信がないらしい。F図で▲5七同銀は△4九角があるし、▲6九玉も△5八角▲7九玉△4九角成の追撃が厳しい。



また、本譜の△9四歩に▲7六飛と逃げるのもしょうがない。「このままだと△8六角! ▲同歩△9五歩として飛車を殺す筋がある」と宮田五段が教えてくれた。


「東西のホープが激突」(後編)に続く

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