学生からの学習改革が、閉鎖的な教育現場に風穴を開ける|MacFan

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学生からの学習改革が、閉鎖的な教育現場に風穴を開ける

文●山脇智志

iPhone、iPadといったiOSデバイスは、新たな学習環境を作り出す可能性を秘めている。しかし、それは教える側たる教師が起こす変革だけではない。伝統的で閉鎖的といわれる医学の教育現場で学ぶ学生から、学習環境を変えようという動きが生まれている。

学ぶ側からのアプローチ




医療においてiPadがその操作性や機動の早さなどの特徴を活かし、手術をはじめとしてすでに多くの現場で利用されているのはご存じの方も多いだろう。実はiPadにおけるその機能と特徴が教育の場面でもっとも活かされるのも「医学」の現場であると筆者は考えていた。
その理由は2つ。まずは画像や動画であるビジュアル・インフォメーションの重要性。文字だけでは成立しないのが医学だ。患部などの写真や手術などの一連の動きを学ぶのにそれらは有効だ。そして情報のアップデートの必然性。いわば「昨日までの常識が今日の非常識になる」のが、この業界だ。しかもそれが人命に関わるとなるとできるだけ情報の速報性と更新性を担保しておくほうがよい。インターネットというインフラとそれが運ぶデジタルコンテンツ、そして医学や医療の世界でその恩恵を最大限に活かすことができるのがタブレット端末だろう。
そんな医学の世界に、iPadなどのタブレットによる学習を啓蒙する、医学生自らが運営する団体が存在する。メディシェア(MEDISHARE)だ。
メディシェアは慶応義塾大学医学部に在籍する田沢雄基氏が2012年に起ち上げた医学部学生による団体。学生が医師国家試験の勉強のための情報をシェアする目的で創立され、大学側にiPadなどのデバイスによる学習の有用性を説き、導入を働きかけているのだ。慶応義塾大学医学部在籍の学生を中心に8名ほどのコアメンバーにより運営されているが、そのメンバーはもはや日本全国の医学部にまで及んでいる。
メディシェアを起ち上げた理由について、田沢氏はこう語る。
「私は2011年に医学生ではあったのですが、ソーシャルメディアコンサルティング企業で1年間、インターンをしていました。そしてソーシャルメディアというものの速度感を実際の仕事を通して知ったときに、自分のいる医療の現場との状況との違いに愕然としました。それを変えたいと思ったのですが、学生である自分にとって病院などの医療のシステム自体を変えることは現実的ではない。ならば次世代を担っていく同じ医療や看護、そして薬学を含めた学生たちにITへのリテラシーの向上や抵抗感みたいなものをなくしていくことならできるのではないかと思いました」
 

医学生がiPadを求める理由




では実際に、医学生がiPadを活用することにどんなメリットがあるのだろうか。メディシェアのメンバーによれば、そこには切実な理由があるようだ。
「例えば実習書のプリントがPDFで配られたりしますし、また海外の医学系の教科書や医学書はほとんどがデジタルコンテンツの形で図書館に入っており、それらを見るのに便利です。それらの本は1冊数万円もするのでとても個人で全部を揃えることはできませんから。そしてアップストアでの医学コンテンツの豊富さですね。特に3D系の解剖のコンテンツなどはいわゆる「触れる」ことができる。内臓器官の理解にこれほどすばらしいコンテンツはないですね」(同学部2年 遠藤洵之介氏)
医学の学習には、膨大な知識の習得が必要不可欠である。しかし、それはもはや人間の頭脳のキャパシティを軽く超えている。そこでiPadが役に立つ。
「私などの5年生になると必要とする情報量が多くなります。例えばダイナメッド(Dynamed)という医療情報のオンラインデータベースを使うのですが、iOSで用意されている専用アプリを使ってオフラインで利用できます。そうすれば病棟などに行ったときでも、オンラインでなくても最新の医学情報へのアクセスが素早く果たせます。薬についても同様で、種類だけでなく、効用などもすぐに調べられる。中でも医学書籍の横断検索の便利さは圧倒的ですね」(田沢氏)
横断検索が実現していることは、これまでなら多くの時間や実習を積み重ねなければ習得できなかったものだ。それがiPadで簡単に得られるということは、必ずしもよい方向なのだろうか。
「生きた知識と本で得られる知識は違うと思います。また医療の現場で活用される量と種類も違います。例えば救急の世界では必要な知識は限られていますが、一瞬の間にそれを引き出さなければならない。生きた知識でなくては対応不可能だし、今の『検索』では対応できません」
確かに、迅速な対応が求められる現場ではiPadで調べている余裕はない。
「でも内科医の現場では緊急的な対応という時間的な制約も少なく、広い知識を網羅的に知っている必要がある。上の世代はテクノロジーの進化が限られたものだという認識がありますが、僕たちの世代はその進化のスピードが速いことを知っています。なのでいつの日か、今は対応できない救急の世界でもテクノロジーで得られる知識が役立つ日がくると信じています」(田沢氏)
 

医学におけるデジタルネイティブの「声」




メディシェアの特筆すべき点は、教育の場へのiPad導入の働きかけが大学側からではなく、「与えられる」学生側からのアクションだということだ。現メディシェア代表の大岡令奈氏はいう。
「医学部とはその学問の性格上、凝り固まっている学部といえます。既存の学習環境を踏襲していくことが当たり前であり、正しい環境なのです」
大学に入学して実際に医学部の空気を感じたとき、そんなことを考えたという。
「医学部はカリキュラムからしても他の学部と全然違うし、夏休みなんてないに等しい。ですからずっと同じ学部の人と、同じ価値観だけを持ちながら生活していきます。学生は徐々にその色に染まっていくしかない。世の中で起きているITの進化とかが波及するのにとても時間がかかる領域です。それを変えていくにはその空気に染まりきっていない自分が学生のうちにやっていくしかないと思いました」(大岡氏)
保守的という医学部の中で、新しい学習環境の提案が学生側から起きるのはさらに興味深い。そこには、間違いなく世代が関係していると田沢氏はいう。小さな頃からデジタル機器に慣れ親しんだ世代が閉鎖的な環境に身を置いたとき、その違和感は年々増していくに違いない。
「(世代の)ギャップは先生と学生だけではありません。例えば自分たち5年生と2年生とでも大きな違いを感じます。上の学年にいくにつれてその理解度やシンパシーも減っているようです」(田沢氏)
いわば生まれるべくして生まれたのがメディシェアという団体なのだろう。とはいえ、現状は彼らの活動がすぐに実を結ぶわけではない。大学側への粘り強い交渉やiPad自体への理解を促す活動が必要不可欠だ。田沢氏は、この取り組みの成果は大学側の対応というより、それを享受する学生側がキーだという。
「私達の取り組みをそのままフォーマット化して、他の大学などで使えるようにしたいです。そのうえで鍵になるのがすでにiPadを保有して、その可能性を感じている医学生です。ネットワークを利用してコミュニケーションの場となるものを構成し、それを学生からの教育へのフィードバックとして活用していってほしいと思っています」(田沢氏)
 

もっとも効果的な学習




彼らとの対談を通して改めて確信したこと、新たに医学の現場で学ぶものしか知り得ないニーズも知ることができた。ともかくiPadという端末は、医学の現場においてはもはや「必然」としか思えないほどの相性のよさだ。
それにも増して感じたのは、デジタルネイティブの医学学習に合わせた教育の擦り合わせの必要性だ。彼らにとって当たり前の、もっとも効果を発揮できる環境を教育側も認識し、学びを増進できる取り組みを進めるべきだと思う。デジタル自体は既存の学習を否定するものではない。むしろ、既存のやり方をより効率化したうえで、さらなる高みへと向かわせてくれるものなはずだ。
iOSデバイスは今や、PCでは実現できなかった「日常の情報化」を図り始めている。自由を体現したようなそれらの端末が日常の1つである「学習行為」をも変えてしまうことは教育と学習の関係がその実、「情報伝達」であるが故に自明の理ともいえよう。学習という行為、学習者という立場が教育という仕組みに従属している時代はもう終わりを告げようとしている。まだ誰も見たことのない新たな「教育」はテクノロジーによって生み出された「新たな秩序」が形作ろうとしているのだ。

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メディシェアのコアメンバーのうちの4名。写真左から、WEBサイトを構築した慶応義塾大学医学部の遠藤洵之介氏(2年)、設立者であり広報担当の田沢雄基氏(5年)、大岡令奈代表(2年)、そしてプログラマーでもある吉永和貴氏(5年)。

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メディシェアのWEBサイト。医師だけでなく看護、薬学といった医療全般の職場を目指す学生たちがお互いの情報を共有できる場として起ち上げられた。

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医学系の教科書や医学書というものはそもそも単価の高いものであり、しかも日々研究が進み情報が更新されるとまた買い直さなければならない。その点iOSアプリなら単価も安く、情報の更新もアップデートですむ。また、例えば内蔵器官など印刷物では理解しづらいものを学習するには3Dのアプリが最適だ。アップストアは最近特に医療系のアプリが充実してきたそうだ。


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医療情報のオンラインデータベース「Dynamed」にはiOSアプリ版があり、オフラインで利用できる。実習で病棟にいるときなど、どこにいても膨大な医療情報を持ち歩き、参照できるメリットは大きいと田沢氏は語る。


文:山脇智志
ニューヨークでの留学、就職、企業を経てスマートフォンを用いたモバイルラーニングサービスを提供するキャスタリア株式会社を設立。現在、代表取締役社長。近著に『ソーシャルラーニング入門』(日経BP社)。

『Mac Fan』2012年11月号掲載