アップルからイノベーションは失われたのか|MacFan

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アップルからイノベーションは失われたのか

文●松村太郎

「アップルから『デザイン』と『イノベーション』が失われたのか?」というテーマについて、前回はデザインについて触れました。洞察が必要なほどに、そのデザインの成熟が進んでいる一方で、イノベーションはどうでしょうか。

その前に、イノベーションの定義について確認しておきます。現在のアップルが志す「イノベーション」を、直訳して単なる「技術革新」だと位置づけてしまうと、なかなかその成果を見出しにくいかもしれません。

というのも、技術的変化というのは、アップルといえども、なかなか作り出すことは難しいのです。基礎を積み上げたことで成熟してきた技術、これを活かすアイデア、製品やサービスを受け入れる市場などがあってはじめて、「消費者による行動変容」としてのイノベーションを巻き起こすことになるからです。

かつて、iPodやiPhoneは、登場した当初、テクノロジー面だけを見られて、「既存技術の寄せ集めだ」「売れない」と評価されていたことを覚えているでしょうか。しかし、蓋を開けてみると、iPodは音楽の聴き方をデジタルへと移行させましたし、iPhoneはスマートフォンのスタンダードを定義し、スマホ時代へと進めるきっかけとなりました。人々の行動が変わる製品こそ「イノベーション」なのです。

そういう意味では、腕時計に時間を知る以外の役割を与えたアップルウォッチ(Apple Watch)や、ワイヤレスイヤフォンの“ペイン”を徹底的に取り除いたエアポッズ(AirPods)も、行動変容を伴うイノベーションだったと位置づけることができます。

という原稿まで書いたうえで、現地時間6月5日から開催されたアップルの世界開発者会議「WWDC23」に参加したところ、かつてないほどの衝撃を受けました。「ビジョン・プロ(Apple Vision Pro)」の登場です。

このまったく新しいゴーグル型デバイスを、実際に体験することができました。装着して画面が広がった瞬間、思わず言葉を失ってしまいました。今までいろいろなデバイスを体験してきたからこそ受けたインパクト。残念な部分が見つからなかったのです。

肉眼と同じ遅延のない映像と、自分の手を含むあらゆるものが正確な距離感で、ビジョン・プロを装着していないときと同じように行動することができました。その中で、身の回りのあらゆるディスプレイよりも大きなサイズのグラスウインドウが浮かび、その中の文字は限りなく高精細で、ドットを見抜くことはできません。

そうした中で、まさにレーザービームともいうべき、正確な視線入力と、多少雑なジェスチャでもしっかりと動作するハンドトラッキング。スムースなフェイスタイムでのコミュニケーションと、シェアプレイ(SharePlay)による共同作業。それでいて、あくまで軸足を現実世界に置いている感覚です。

テクノロジー、ライフスタイル、カルチャー、あらゆる側面で「ちょうどよい製品」の姿を示すことに成功したと言えます。

では、この製品はどのように行動変容を起こすのか。皆さんも気にされているのは3499ドル、日本円で約50万円という価格です。この製品が発売されても、そう簡単にユーザを増やせる金額ではありません。しかし、すでに「欲しい」と考えるユーザは十分に存在しており、最初の顧客(ファーストカスタマー)の獲得には苦労しないでしょう。

ビジョン・プロがどのようなイノベーションとなるのか。数年後には答えが出ているかもしれません。

 

WWDC23に参加し、Apple Parkの敷地内の体験スペースでApple Vision Proのデモ機を30分試す機会を得ました。デモ映像どおり、もしくはそれ以上の出来だったと振り返ることができます。

 

 

Taro Matsumura

ジャーナリスト・著者。1980年生まれ。慶應義塾大学政策・メディア研究科卒業後、フリーランス・ジャーナリストとして活動を開始。モバイルを中心に個人のためのメディアとライフ・ワークスタイルの関係性を追究。2020年より情報経営イノベーション専門職大学にて教鞭をとる。