2011年11月10日|MacFan

文●松村太郎

2011年11月10日。皆さんにとっては何でもない日付かもしれませんが、筆者にとっては人生のターニングポイントといえる1日です。31年間過ごした東京から、はじめて別の街へ引っ越した日。しかも、その行き先は、米国カリフォルニア州バークレー。

その年は、個人的に、本当に気持ちが沈んでいたときでした。3月に発生した東日本大震災によって、生活だけでなく価値感が一変。これまで当たり前だったことが一瞬でそうでなくなってしまうという「焦り」にだんだんと支配され始めていたのです。

10月にはスティーブ・ジョブズが亡くなりました。経営者として彼を尊敬していたのはもちろんですが、アップルを追いかけるジャーナリストを志していたのに「ジョブズのプレゼンをこの目で見ることができなかった!」という後悔の念を強く抱いたのを覚えています。

死去の2カ月前、CEOの座がティム・クックに移ったとき、もう「ジョブズのプレゼンを聞けないかもしれない」と悟り、急いでビザを準備していた矢先の出来事でした。今思えば、カリフォルニアに引っ越してもジョブズに会えるわけではなかったのに…。

でも、冷静なままでは「米国に引っ越そう」なんて考えなかったですし、行動にも移せなかったと今でも思います。英語も話せない、身寄りもない、土地勘もない、わからないことだらけの米国での日々のスタートでしたが、不思議と不安はありませんでした。

「あの日」から10年が経ち、今は日本に戻ってきています。米国での時間が長かったことをもあり、正直なところ、今でも「浦島太郎状態」です。たとえば「LINE」。筆者が日本を離れるときはまだ主要な連絡手段とは言い切れず、お恥ずかしながら今でもLINEでつながっている友人はいません。また、日本では「○○Pay」といったQRコード・バーコード決済が乱立していて、自分の生活圏で何が一番有用なのかを判断することもできませんでした。

一方で、米国での生活を経験したことで、さまざまな価値観をアップデートすることができました。リーマンショックで痛んだ経済が力強く上向き、街のホームレスが減り、新しいお店が乱立する様子は、私の目にも非常にエネルギッシュに写りました。

また、スマートフォンの普及によって、脆弱なインフラを補う役割をアプリが担うという社会変革も進みました。その結果、米国社会は「モバイルによる新たな社会の成熟モデル」を迎えるのです。きっかけとなったのは、「スマートフォン」と「アプリストア」。その原型を作ったのは、紛れもなくジョブズ率いるアップルでした。

iPodの爆発的普及によって、街に白いイヤフォンがあふれました。同じくiPhoneによって、人々の目線の大半は、自分のスマホの画面に移りました。iPhoneやアップルウォッチ(Apple Watch)を改札にかざして通る様子も浸透しました。エアポッズ(AirPods)のヒットによって「完全ワイヤレスイヤフォン」が当たり前になり、人類はケーブルの煩わしさから解放されました。

アップルはしばしば、こうした「社会の風景を変える」仕事を着実にこなしています。以前、本連載でも書きましたが、アップルは変化を「待つ」ことができるのと同時に、変化を「作り出す」こともできるのです。

「ジョブズ亡きアップルにイノベーションなし」と言われて10年が過ぎました。果たして本当にそうだったのか? 「イノベーション」とはいったいなにか? 今一度、問い直したいテーマです。

 

Appleを直接取材したいという夢を叶えるため、2011年からの8年間を米国カリフォルニア州バークレーで過ごしました。米国に移った日のことは今でも覚えています。

 

 

Taro Matsumura

ジャーナリスト・著者。1980年生まれ。慶應義塾大学政策・メディア研究科卒業後、フリーランス・ジャーナリストとして活動を開始。モバイルを中心に個人のためのメディアとライフ・ワークスタイルの関係性を追究。2020年より情報経営イノベーション専門職大学にて教鞭をとる。