集え、有志たち! 地下鉄乗務員が案内アプリを自ら開発|MacFan

教育・医療・Biz iOS導入事例

集え、有志たち! 地下鉄乗務員が案内アプリを自ら開発

文●牧野武文

Apple的目線で読み解く。ビジネスの現場におけるアップル製品の導入事例をレポート。

東京メトロでは、全路線の車掌にiPadを携帯させ、車内放送などに活用している。今年3月からは、新たに多言語案内アプリを導入。開発したのは、なんと素人同然の乗務員たちだという。現場の声を反映すべく試行錯誤した開発経緯と、その成果に迫っていく。

 

iPadを車掌全員に配付

東京メトロ(東京地下鉄株式会社)では、以前からiPad導入を進めており、今年2月には全車掌へのiPad配備を完了。乗客案内等に活用している。一方で、運転士のみが乗務するワンマン路線も増えてきた。ワンマン運転では、運転士が車掌の業務も行う。そこで、今年3月16日より、ワンマン路線の運転士も、車掌と同じようにiPadを携帯することになった。

iPadを使う業務の1つが、異常時に行う乗客への状況説明だ。現在は日本語だけでなく英語、中国語、韓国語の放送が必要になっており、その多言語翻訳をアプリで行うのである。しかし、昨年試用した一般の翻訳アプリは、現場から「使いづらい」という声が多く上がっていた。緊急事態において、車掌は各方面と連絡を取ったり、場合によっては車外に出て安全確認をしなければならない。その最中に、文章を入力して翻訳操作をするのは、あまりに時間がかかりすぎるのだ。

そのため、専用に設計された案内アプリが必要という話になった。問題はどうやって開発するかだ。選択肢は外注か内製かの2つ。適切な外注先を選べば、質の高いアプリを開発することができるが、車掌の業務を理解した使いやすいものになるかは保証できない。その点、内製であれば車掌の生の意見を取り入れやすい。今回の目的を考えると、内製をしたほうがいいように思えた。ところが、東京メトロにはシステム開発部のようなセクションは存在しない。そこで、あまりにも大胆な第三の方法をとった。

「開発者を社内公募することにしたのです。アプリ開発の経験が少なくても、やる気のある社員に手を挙げてほしい。昨年の3月に公募をしてみたところ、10人の社員が集まりました」(東京地下鉄株式会社 運転部副主任、縄田雅之氏)

しかし、集まった10人のうち9人は開発経験がまったくなく、言い方は悪いがまさに「素人集団」だった。縄田氏は、これで本当にアプリ開発ができるのかを確かめるため、まず7月までに各自アプリ開発の勉強をしてもらい、音声を使った簡単なアプリを開発してくるという課題を与えた。唯一プログラミングの経験があり、10人のリーダーとなった五十嵐氏も、当初は試行錯誤の連続だったと振り返る。

「私を含め、iOSアプリの開発は誰も経験がなく、何を使ってどうやればいいのかすら知らなかったのです。まずは書店に走って、iOSアプリ開発の入門書を買うところから始めました」(運転部統括事務係、五十嵐信徳氏)

結果、10人のメンバー全員が課題をクリアし、縄田氏はこの方式でアプリ開発ができる感触を得たという。こうして、運転士や車掌というユーザ自らがアプリ開発をする、珍しい開発体制がスタートした。

 

 

東京メトロでは車掌全員がiPadを携帯し、乗客への案内等に活用。多言語放送のほか、他鉄道会社の運行状況の把握などに役立てている。

 

 

乗務時間外でのアプリ開発

開発経験が豊富なエンジニアの中には、iOSアプリの開発は癖や個性が強く、慣れるまでに時間がかかるという人もいる。しかし、この開発メンバーにはそのような問題は起きなかった。皆iOSアプリの開発は初めてのことだったので、そういうものかと素直に受け入れることができたのだ。

しかし、アプリ開発をするからといって通常業務が減免されるわけではない。通常業務はしっかりと行ったうえで、開発業務も並行して行わなければならない。負担が大きくなることは公募に手を挙げたときに覚悟をしていたが、影響を及ぼさないように時間をとることは難しかったという。

東京メトロでは、乗務前は必ず対面で点呼をすることになっている。睡眠不足や体調不良などがあった場合は、乗務させることができない。また、安全を期すため、眠くなる成分の入った薬を飲んで乗務することも禁止されている。

「翌日早朝の勤務があるときは遅くまで開発業務はしない、などの縛りをかけました。その中で時間を見つけて、作業するのはなかなか大変でした」(五十嵐氏)

会社側も、一定の範囲で残業を認める、開発企業に依頼をして社内研修などを行うなどの支援を行った。

「開発チームには、通常業務を100%優先してほしいとお願いしました。それで開発期間が延びるのであれば仕方がない。私たちの本来の業務は乗務なのだということを確認しながら進めていきました」(縄田氏)

 

 

開発プロジェクトを推進する東京地下鉄運転部・縄田雅之副主任(右)と、開発チームのリーダー・五十嵐信徳氏(左)。10名のチームで3つの開発プロジェクトを走らせている。

 

 

痒い所に手が届くアプリが完成

昨年8月頃から本格的な開発が始まり、今年3月、ついにアプリが完成した。ユーザ自らが開発しただけあって、シンプルながら細部まで行き届いた設計になっている。起動すると、[車両故障・信号トラブル・ドア点検][軌道内転落、人身事故]など、緊急時のメニューが現れ、これをタッチするだけで該当のアナウンス一覧が表示される。そこから任意のアナウンスを選べば、すぐに音声案内が再生。この音声を車内放送用マイクで拾って、車内放送する。わずか2タップで必要なアナウンスが流せるのだ。さらに、この画面から「運転見込み案内」など次のアナウンスへのショートカットまでついている。いちいちトップメニューに戻る必要はない。

特筆すべき機能がリピート機能だ。アナウンス一覧画面で[5言語]ボタンをタップすると、日本語と英語、中国語(簡体・繁体)、韓国語の5言語のアナウンスを計10回リピートする。

「緊急時ですから、乗務員は安全確認や救護のために、乗務員室を離れなければならないことがあります。その間、車内放送を途切らすわけにはいきません。そこでリピート再生にして、iPadを置きっぱなしにするのです」(五十嵐氏)

このような機能は、現場経験がなければなかなか気づかない。外注する場合、要件定義の場ではこのような痒いところに手が届く機能は見落とされがちだ。これを防ぐために、エンジニアが乗務員に貼り付いて、乗務員と同じオペレーションを体験するというシャドーイングという手法もあるが、それにはコストと時間がかかる。

ユーザが自分で開発してしまうという大胆な手法の効果は大きかった。作っては業務で使うことを想像し、また作るという「一人アジャイル開発」のような状況が生まれたからだ。

 

自ら創意工夫する社風

この10人の開発チームを、開発部のような部署にすることは現在のところ考えていないという。従来どおり乗務をこなしながら、今後もアプリ開発を続けていく。すでに車内の忘れ物をアプリ経由で連絡するアプリ等の開発が進めているほか、2020年の東京五輪を目指し、駅から近隣施設や競技種目などの案内をするアプリも制作を検討中だ。

「東京メトロでは運転部だけでなく、各部で業務の改善活動を進めています。運転部では、アプリを開発することで業務の改善活動をしたのです」(縄田氏)

また、これとは別に、「メトロのたまご」と呼ばれる社内提案制度もある。「メトロのたまご」からは、ベビーカーユーザ向けに駅構内を案内するWEBアプリ「ベビーメトロ」などが生まれている。

東京の地下鉄は、世界でも類のない出自を持つ。昭和2年に、民間企業が民間の出資金を集めて上野・浅草間(現・銀座線)を開通したことが始まりだ。つまり、今で言うスタートアップ企業が始めたのだ。莫大な建設費を捻出するため、スーパーや食堂を運営したり、銀座線三越前駅では三越百貨店に対して命名権ビジネスをするなど、あらゆるマネタイズ手段に挑戦し、都市交通のスタイルを築き上げてきた。現在の東京メトロ社員の間でも、創業者の早川徳次(のりつぐ)氏の名前は大きな存在になっているという。「ユーザが自分で開発する」業務アプリと、この東京メトロが受け継いできた企業文化は、決して無関係ではない。

 

 

10人の乗務員により開発された多言語異常時案内アプリ。トップメニューから各項目をタップすると、その状況に適したアナウンスが表示。下部の言語ボタンをタップすれば、各国語のアナウンスが音声で読み上げられる。これを車内放送用マイクで拾って、放送するという仕組みだ。

 

 

ワンマン運転をしている路線では、運転士が車掌業務も行うため、今年3月からiPadを携帯するようになった。ワンマン路線は、丸ノ内線、南北線、副都心線のほか、千代田線、有楽町線の一部路線。

 

 

乗務員は紙のマニュアルも携行。iPadにはこれらを電子化したデータも入っており、いつでも参照できるようにしている。

 

東京メトロのココがすごい!

□iPadを全車掌とワンマン路線運転士が携帯し、サービス向上に活用
□自社公募でメンバーを集め、「異常時多言語放送アプリ」の開発に成功
□車内の忘れ物連絡、駅からの道案内など、今後も自社アプリを開発予定