不敵な追走者 連勝新記録を樹立した神谷広志五段|将棋情報局

将棋情報局

不敵な追走者 連勝新記録を樹立した神谷広志五段

いまをときめく藤井聡太四段が、6月26日の竜王戦挑戦者決定トーナメントで増田康宏四段を破り、将棋界新記録となる29連勝を樹立しました。神谷広志八段の持つ28連勝の記録が、デビュー間もない新人四段に、30年ぶりに塗り替えられたのです。
ところで神谷八段は、藤井四段が記録に近づく頃から、テレビ各局の取材を受けるなど、思わぬ(?)脚光を浴びました。神谷八段の話では、五段時代に28連勝を達成した当時(1987年)は、あまり大きく報道されなかったそうです。
将棋世界では、1987年9月号に、27連勝時のインタビュー記事が掲載されています。取材者はなんと、当時『将棋世界』編集部員だった大崎善生さん(作家)。のちにベストセラーの『聖の青春』や『将棋の子』を生み出した大崎さんも、この頃は29歳でした。
両者の許可を得まして、ご紹介いたします。

お得で気軽に参加できる将棋大会『第6回 将棋情報局最強戦オンライン』11月13日開催! エントリー受付中 【記】大崎善生
※1987年9月号掲載
※文中の肩書きは当時のもの


“昭和36年4月21日、静岡県浜松市の生まれ。50年、5級で広津久雄九段門。53年初段、56年3月四段、59年五段。59年第3回早指し新鋭戦、第7回若獅子戦で準優勝”。
昭和62年版将棋年鑑の棋士名鑑に掲載されている神谷広志五段の略歴は、それで終わりである。棋戦優勝もなければ、リーグ入りの記録もない。実にシンブルな棋歴である。その、たった五行で総括されてしまう棋歴の持ち主が、ちょっと信じられないような快記録を打ちたてた。
27連勝、継続中。
もう二度と破られることはない、と思われていた塚田泰明七段の、22連勝という大記録を、たったの半年足らずで塗り替えてしまった。しかも、大幅の更新である。
2月10日の対野本虎次七段戦から7月24日の対青野(照市八段)戦まで、ドロドロと地底で熱せられたマグマが大噴火を起こしたように、白星の山を、神谷は累々と、より高く築き続けた。「16連勝した時に、塚田君が本気で心配しているという話を聞いて、それなら塚田の泣く顔を見てやろうと思った」と神谷は言う。一事が万事、こんな風である。
10連勝ぐらいまでは、いつの間にかという感じだった。15連勝を過ぎたあたりからだろうか、「昨日、神谷勝った?」「勝った勝った」「ヒェー」。というような会話が、連盟のあちこちで、挨拶がわりのように聞かれるようになってきた。
そして、20連勝を超えたあたりから、驚異の視線が神谷に注がれ始めた。
7月7日、C級1組順位戦で必敗の将棋を粘り抜き、武者野(勝巳)五段を破り22連勝を達成。塚田の記録に並んだ。その後も神谷の内包するマグマは、とどまるところを知らず、滝、石田、二上、武市、青野と連破。とうとう27連勝。
「偶然といえば偶然ですね」。連勝のことを聞くと、神谷は照れ笑いを浮かべ、こう続けた「やってみろって言われてできるもんじゃないし、狙ってできるもんでもないですしね」。

兄貴分タイプ

こんな場面に出会ったことがある。今から三年程前の話だ。
四、五人の奨励会員達が、将棋連盟の2階の道場で、盤を囲んでタイトル戦の研究をしていた。「この手はこういう意味だ」「この手にはこれがあって、存外大変」「なるほど、ではここではこうする一手か」というような調子でつつき合い、ようやく一つの結論らしきものが生まれようとしていた。
誰かが「この変化は先手の勝ちでしょう」という。「そうだね、それは流石にいいか」ということになって、次の変化へと盤面は進められた。
そこへ、いかつい顔をした神谷が、ヌッと現れた。
「どっちがいいだって?」まるで喧嘩を売っているような口調だった。「言ってみろよ」。
「この変化は、このように進んでこれでは流石に先手がいいという結論になったんです」と誰かがおそるおそるという感じで統一見解を述べた。
「だから、その先をやってみろよ」と神谷。「どうよくなるんだ」。いいと結論したからには、負けたら許さんという雰囲気である。
奨励会員達は黙ってしまった。皆が結論した局面だし、それで確かに悪いとも思えないのなら、誰か局面を進めてやっつけてしまえばいいのに、と思って見ていたのだが、神谷の気迫に気押されたか誰も率先して駒を動かそうとしない。
反応がないので、神谷はおもしろくねえ、という顔でその場を立ち去った。
へえー、凄い奴だなあと思った。何が凄いと思ったかというと、誰にも何も言わせないところがである。
神谷が立ち去ったあと、奨励会員達は一瞬の緊張から解放され、いいと結論した局面から再検討を始めた。彼らは、不幸にも、突然熊に出会った登山者のようなものだった。
彼らが自分達の出した結論の早急さを反省したのか、やっつけるチャンスだったと地団太を踏んだかは覚えていない。
恐らく後者だったような気もするが……。
「ほんとうに恐かったですよ」と塚田七段はいう。「僕もよくいじめられました」。
神谷の恐さは、肝っ玉の据わったものの考え方と。ぶっきらぼうな話し方にあるのだろう。ほんとうは心根は優しく、思いやりのある兄貴分タイプである。
だから、当時も奨励会員達に抜群の人気があったし、塚田とのつき合いは、今でも続いている。
「最近、またいじめられた」と塚田は笑う。もちろん、連勝記録のことである。

二つの壁

神谷は昭和36年、静岡県の浜松市に生まれた。小学校3年の頃、将棋のルールを覚え、5年の頃に夢中になり本を読みだしたというから、棋士としては遅いスタートである。それから、浜松の浜松支部に通い始める。
特A、A、B1、B2、C1、C2とキッチリと組織化されたシステムの中に組みこまれ、神谷はC2からスタートを切った。1日に5対局、5連勝もしくは4勝1敗連続2回で昇級という規定に初めは苦しむ。C2をなかなか脱せられず、そしてやっと抜けたと思ったらB2でまた壁にぶつかる。B2にいた頃はもう、中学に入学していた。ちなみに、B2というのはアマチュアの4級ぐらいという。
この頃、神谷はもう一つの壁にぶつかっていた。
小学生時代の神谷は、相撲が強く無敵を誇っていたという。「得意技も何もありませんよ、土俵に上がればそれだけで勝ち」。という程の圧倒的強さだった。神社の境内で行なわれる、小学生の相撲大会では、常に優勝候補の筆頭であった。
中学に進学して、将棋に夢中になる少年を先輩のワルが待ちうけていた。
「生意気でしたからね」。今でこそそう笑うが、中学に進学したばかりの少年にとってはそれは悲惨な試練であったことは、想像に難くない。
毎日のようにつきまとわれ、なんだかんだと因縁をつけられ、顔がはれる程、殴られた。「自分も体がガッチリしていて、同年代には負ける気はしなかったけれど、その頃の2年差の体力は手合い違いですからね」。
喧嘩なんてもんじゃない。ただ、ただ耐えるだけの毎日だったようだ。
「今でも、あいつだけは許しません」という神谷の言葉に、中学生の少年が受けた理不尽な暴力への怒りの刻印を感じる。
しかし、神谷はくじけなかった。
いや、かえってそれに耐えることによって、強靭な精神力を鍛えあげていく。
殴られながら育ってきた、そこに、神谷のふてぶてしい反骨精神、ものに動じない何か異質の精神力の原点かおるのかも知れない。
中学1年の終わり頃、苦しみながらB1に上がった神谷は、ここから一気に爆発する。B1から特Aまで、15連勝で駆け上がっていく。前後の2勝を加えて、17連勝。それは当時の浜松支部の連勝記録であり、おそらく未だに君臨する記録だろう。
中学1年、将来の希望を聞かれ“プロ棋士”と答え、教師に怪訝な顔をされた5級の怪男児は、中学1年の終わり頃にはアマ四段の実力をつけ、より強い相手のいる静岡に足を伸ばす。
広津九段の教室に月一度、電車で通い始め揺籃期に終止符を打つ。
神谷は、二つの壁を、自力でクリアーしたのだ。

夢が実現

「弱い弱いという伝説が残っている人はいますが、僕も相当に昇級の一番は弱かったですね」。
昭和50年秋、中学2年の神谷は5級で奨励会入会を果たした。5級から4級へ8ヶ月月程、足踏みをする。
初めてむかえた昇級のチャンス。必勝の局面を作りながら、粘りに粘られて逃がしてしまう。
「あの顔と粘りにはまいりましたね」と笑う神谷。
今から約12年前、5級の神谷に最初の頓挫を味あわせた男は、今、谷川九段を相手に王位防衛戦の真最中(注:高橋道雄王位のこと)である。
それから昇級の一番を逃がしながらも神谷は少しずつ、プロヘの階段を昇っていく。最高に苦しかったのは二段から三段に昇る時、当時の奨励会には12勝4敗、14勝5敗、16勝6敗、18勝7敗という昇段規定があった。それを神谷は12-4で逃がし、14-5で逃がし、16-6で逃がすという、離れ業をやってしまう。つまり、2勝しては昇段の一番を迎え、それを逃がすということを、3回繰り返したのだ。
そして、ラストチャンス。これを逃がせば、総て水の泡という、18勝7敗を見事クリアーする。
「いやあ、あの時は嬉しかったですね」と声を一オクターブ高くする神谷は、心底嬉しそうな子供みたいな笑顔を見せる。
「あの時、勝っていなかったら、本当にやめていたかも知れません」。
約10回、昇級を逃がし、二段から三段へと、昇段の一番だけを負け続けるという苦い思いをしながら、神谷は昭和56年に四段に辿りついた。
アマチュア5級の時に、プロ棋士を志し、「どうせ使いものになんないんだから、何やってもいい」と親に檄を飛ばされて、棋士を志した神谷が少年の日の夢を見事に実現したのである。

▲7七銀への疑問

「▲7七銀という手はどうも納得がいかない」、かつて神谷はそう公言していた。
▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀の▲7七銀が疑問手だというのである。この矢倉の骨子ともいえる▲7七銀という形は、将棋ファンならば誰でも知っている進行だし、プロの間で何万回と通ってきた重要な通過点である。そこを越えたあと、矢倉24手組といわれる定跡までは、目をつぶってもそう進むところである。
それが嫌いだ、と神谷は公言してした。
コロンブスの卵ではないが、そういうところに目をつける発想にまた驚いた。そして、60年、61年と個性を全面に打ちだした将棋を指す。
プロ間では、あまりお目にかからない原始中飛車を多用していた時期もあった。
「今でも、理論的には分からないが、▲7七銀は感覚的、そして生理的に悪手だと思っている」と神谷はいう。しかし、それをやるようになって、勝ち星が増えだしたというから皮肉なものである。
棋風は? と尋ねたところ「自己分析は大の苦手でよくわからないんですが、まあなるようになるというか、やってみりゃわかるというか」……。だから、急に勝ち出した理由もわからないし、それがわかれば常にそうしているのだけど、と言う。
「▲7六歩と折角開けた角道を、なぜ2手かけて▲7七銀と止めなければならないのか?」という疑問は、心の引き出しにしまいこんでしまったようだ。27連勝のうち、15勝は矢倉であげたものだ。
「なるようになる」というのが自分の棋風だという神谷が、今注意していることは「なるべく自分の特徴を消すこと」だという。ほんとうにユニークというか、スケールが大きいというか。おもしろい発想の持ち主である。
自己分析が大の苦手という神谷にかわって塚田七段の神谷評を御紹介しよう。
「序盤から積極的に動き、ポイントを稼いでおいて、中終盤をていねいに受けて勝つ将棋です。あの姿を見ると、激しく攻めてくるという印象を受けますが、実はフェイントです(笑)」。
怒られないように。

家庭では

昭和59年4月。神谷は栄里夫人と結婚した。その話を聞こうとすると。神谷は途端に逃げ腰になった。
奥さんは、優しい雰囲気を持つ美人である。そして、もっとぐやじいのは、彼女がかつて看護婦さんであったということだ。
「結婚は惰性でした」「なんだか、別れそびれちゃいまして」。これはもちろん照れだろう。
多くは語らない神谷だが、なんとなくこのたった二つの言葉の中にも、大恋愛の足跡を感じるのだが……。
長男の正人君は1歳半になる。
「きかなくて、わがままで困ります」。という割には、神谷は自分でお風呂にも入れるし、散歩もするし、おむつまでとりかえちゃうそうだ。
「自分もわがままだけど、もっとわがままです」と、困り果てた表情が楽しい。
「いつか、機嫌が悪い時に、ファミコンの忍者ハットリくんをやって見せてやったら喜びましてね、それはいいんだけど、対局の朝6時頃やってきて、「ハットリくんをやってくれ、やってくれってせがむんですよ」。
で?
「いや、やりますけどね」
ということである。
棋士には珍しく、家のことは何でもやる方だと神谷はいう。
きっと、家でもたよりになる兄貴分なんだろう。
「しかし、わがままは言うは、通らなきゃ、泣きだすは、何とかなりませんかねえ」と言った側から、「もっとも、そのぐらいのガキが妙に分別あったら気持ち悪いか」とすかさず、気を取り直していた。
ちょっとした言葉の端々に、充実した楽しい家庭の雰囲気が見え隠れしている。決して言葉には出さないが、それが今の神谷の原動力なのだろう。
来年の将棋年鑑で、神谷広志の棋歴は果たして、何行ぐらいにふくれ上がっているだろうか。楽しみである。

対二上九段戦


第1図を御覧頂きたい。これは、27連勝のなかでも、神谷が一番嬉しかったという将棋である。
今、二上達也九段が▲2七銀と趣向を凝らしたところ。この銀の意味は、もし後手が△6三銀と普通に受ければ、たちまち▲1六銀から▲2五銀と出ていこうということである。実は、この将棋は神谷は先手を持って3局程指したことがあるという。力将棋は神谷の最も得意とする範疇である。その時は後手△6二銀型で、▲2七銀△3四歩▲3六飛△3三金▲1六銀が神谷のとった作戦。序盤から積極的にポイントを稼いでいこうという、神谷らしい展開である。姿形よりも、実利を重んじる序盤作戦である。
本譜、二上九段の▲2七銀以下、△3四歩▲3六銀△8六歩▲同歩△同飛▲8七歩△8四飛▲4五銀△6五歩と実戦は進んだ。神谷の指し手には、絶対に点を取らせないという、意志が感じられる。

第2図はその終盤戦。二上九段が▲8二飛とおろした局面である。
ここで自玉の詰みを神谷はたいして読まなかったという。「読みだしたらきりがないし、二上先生だから詰まされても仕方がないや」と思って、えいっと△8五桂打と7分の考慮で詰めろをかけた。 ▲4三銀成以下、延々20数手に亘り、王手王手で追いまわされる破目になる。変化も多岐に渡るが、微妙な合駒の関係もあって、即詰みをぎりぎり逃れている。
詰む詰まないの局面で、最後まで読まずに、えいっといってしまうのが勢いというものだろうか。凄い大胆さである。
まして、相手は詰将棋の名手、二上九段である。
いつも、もうちょっとでいいところに行ける、一歩手前のところで負けてしまうことが多いという神谷にとって、この一勝は嬉しかったという。まだまだ、棋王戦本戦のベスト8でしかないが、これで次に負けても敗者戦に回れるのが大きい。
それともう一つ。二上九段にはあと一つで王位リーグ入りという一番で、手痛い負けを喫したことがある。ほんの少しだけ、恩を返せたというところだろうか。

気がつけば……

神谷は大の競馬好きである。初めて連れられて行った馬場で、シービークロスという馬が、最後方から直線一気に、他馬をゴボウ抜きにして追い込んでくる姿を見て大感激。以来虜になった。
ミスターシービーが大好きだという。いつも、離された後方をのんびりと追走し、直線に入ると爆発的な末脚で、アッという間にトップに踊り出てくる。先行差しが理想といわれる近代競馬の反逆児であり、頑固にそのレースを貫き通し、三冠馬に輝いた。
『気がつけば騎手の女房』というシービーに騎乗していた、吉永正人夫人のエッセイ集を読み、その日のうちにその本に出てくる、騎手がよく現れる「ジュン」というスナックを探しに行ったという。
大変な感激屋である。
ダイナアクトレスという馬に惚れこんで、買い続けた。雨の中山に出かけて、アクトレスの写真を撮りまくった。もちろん単勝も勝負したが、最下位だったと笑う。あのときは、ガックリしたなー。
好きな馬は徹底的に好きだが、嫌いな馬は絶対にイヤ。ルドルフとラモーヌが嫌いだというから、収支の方は赤字に決まっている。去年のオークスで、アクトレスから馬券を流し、一点だけはずした。アクトレスは2着だった。結果ははずした大本命のラモーヌが楽勝。
頑固な男である。
目標は? と聞くとB2への昇級、上にあがって本当の勝負をしたい、と答え、夢は? と聞くとシービーとアクトレスの子供の馬主になること、と目を輝かせる。
“不敵さ”と“優しさ”、“大胆さ”と“緻密さ”という相反するものが同居している、神谷にはそんな不思議な魅力がある。
“先のことなど考えられず、今の今しか生きられなかった行きあたりばったりの私の生き方は、ふと気がつくととんでもないところに自分を発見してびっくりしたり苦しんだりすることもあったが、思いもかけない喜びや、感激にも人一倍出会ったような気がする”。これが『騎手の女房』の最後の最後の部分である。
自分は不器用だという神谷は、憧れたターフのヒーロー達のように、悠々と追走し、先をいく同世代の棋士達を一気に追い抜き去るのだろうか。まだ誰も、第4コーナーは回っていない。


――――――――――――――――
いかがでしたか?
じつは、将棋世界2017年9月号(8月3日発売)では、藤井聡太四段の新記録達成にちなんだ特集を組むことになりました。
28連勝記録保持者の神谷八段と、22連勝の記録を神谷八段にわずか半年で抜かれた塚田泰明九段が、当時のエピソードをまじえて、藤井四段の偉業達成と天才性について大いに語り合います。
ぜひ、ご期待ください。(将棋世界編集部) お得で気軽に参加できる将棋大会『第6回 将棋情報局最強戦オンライン』11月13日開催! エントリー受付中
将棋情報局では、お得なキャンペーンや新着コンテンツの情報をお届けしています。

著者

大崎善生
1957年、北海道札幌市の生まれ。『将棋世界』編集長を経て2000年『聖の青春』(講談社)で第13回新潮学芸賞。2001年『将棋の子』(講談社)で第23回講談社ノンフィクション賞。2000年『パイロットフィッシュ』(角川書店)で第23回吉川英治文学新人賞。最新刊に『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』(角川書店)がある。
将棋世界2017年8月号より「神を追いつめた少年 ―藤井聡太四段の夢―」連載スタート