掌編小説「言葉」シリーズ

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【第12回】『才フロクイテハE』

2015.02.28 | 岩村圭南

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 わら半紙に書かれた八文字のメッセージ。その意味とは?

 

『才フロクイテハE』         

               

 今夜はやけに底冷えがする。天気予報では夜遅く雨が雪に変わるらしい。僕は炬燵に入り、みかんを頬張りがらアルバムを見ていた。先月89歳で亡くなった祖母の形見分けで貰い受けた古いアルバムである。

 妻がお茶を淹れ直して戻ってくる。

「この昔の写真、お婆ちゃんとお父さんでしょう。坊主頭が可愛らしい。美人よね、お婆ちゃん。いつ頃の写真かしら」

「50年、いや、それ以上前だろうな」

「ねえ、この紙は何なの?」

 妻が覗き込むようにして聞いてくる。

 写真の下に、茶色に変色した、しわしわのわら半紙がセロテープで貼り付けてある。中央に縦書きのかすれた文字。大きさがばらばらで、文字が少しずつ右にずれている。漢字とカタカナがまじり、最後は英語のEで終わっているように見える。

「うーん、『才フロクイテハE』って書いてあるのかな。最後の三文字は、かすれてるから読みにくい。何かの暗号?」

「僕も初めてその文字を見た時、父に同じ質問をした。そうしたら」

 妻が顔をぐっと近づけてくる。

「『お婆ちゃんの字だよ』と言って、話してくれた。遠い昔の思い出をね」

「遠い昔の思い出?」

「そう。父が高校生だった頃の話。そこに日付が書いてあるだろう。1964年2月。それは後から父が書き足したんだよ」

 一見するとまったく意味をなさない暗号のような八文字。その裏には、祖母と父にとって決して忘れられないドラマが秘められていたのだ。

 祖母との思い出を懐かしむように語る父の姿が思い浮かぶ。

    

 東京オリンピックが開催された年だったと思う。

 働きながら夜間の定時制高校に通っていたが、あの日は友人と食事をし、降り出した雪のせいもあって、帰宅するのがかなり遅くなった。余程具合が悪かったのか、家に戻ると風邪気味だと言っていた母はすでに床についていた。体の芯まで冷えきっていたので、着替えるとすぐ布団の中に潜り込み、そのまま寝入ってしまった。

 次の日の朝。母がいつもより早い時間に起こしに来て言った。

「お風呂に入らなかったのね。出しておいた下着がそのままになってる」

 鼻声だった。

「えっ、沸いてたの?気がつかなかったよ。すぐ布団の中に入っちゃったから」

「わら半紙に書いておいたけど。この机の上にあったでしょう」

 畳の上に落ちているのを見つけ、「あっ、これ、ほら」と言って、そのわら半紙を見せた。

「ん?何だよこれ」

 母は恥ずかしそうな顔をして黙っていた。

「ちっ、こんなの読んだってわかんないよ」と馬鹿にするように言い放ち、その紙を右手でぐしゃりと握りつぶし畳の上に投げ捨てた。

 一瞬母の顔が凍りついたが、みるみるうちに目から涙が溢れ出た。その時が初めてだった。母の涙を見たのは。原因は、自分の不用意な一言。

 その後、無言で朝食をかき込み、すぐに家を出ようとしたが、母が帽子と手袋、マフラーを手渡し言った。

「雪が積もってるから気をつけてね」

 振り向かずにそのままドアを閉めた。

 積もった雪の上を歩く音が胸を締めつける。戻れ、謝れ、戻れ、謝れ、と言っているような気がしてならなかった。途中で何度か引き返そうと思ったが、その気持ちを振り切るように早足で職場へ向かった。

 この雪の中を具合が悪いのにもかかわらず今日も仕事に出かけるのだろうか。母の体調を気遣いながらも自分を責め続けた。なんという心ない言葉を吐いてしまったのだろう。

 母は貧しい農家に生まれ、義務教育すら十分に受けられず、読み書きが不得手だった。もっと勉強したかっただろうに。その思いは残念ながら叶わなかった。それから戦争、結婚、出産。父は早くに病死していた。

 多くを語ろうとしないが、想像もつかないほどの苦労をしたに違いない。過酷な生活環境にも耐え、決して挫けず、母は我が子のために身を粉にして働いてきたのだ。

 それを知っていたはずなのに。わかっていたはずなのに。吐き捨てるように言ってしまった。

「何だよこれ。こんなの読んだってわかんないよ」

 しかも、舌打ちまでして、あの紙を握りつぶして放り投げた。寝起きが悪いから、と言い訳して済むような問題ではない。すぐにでも家に戻って謝るべきだった。そう思うと、仕事に身が入らなかった。夜間の授業でも集中できなかった。繰り返し目に浮かぶ初めて見た母の涙顔。どうしよう。どうすればいいんだ。そればかり考えていた。

 授業はいつもより早く終わった。ふと思い立ち途中で書店に寄り、雪の降りしきる中を一人とぼとぼと家路についた。

 一体どういう顔をして家に帰れば……。思い悩んでいるうちにアパートの前まで来てしまった。

 すぐには中に入れない。体が縮こまっているのは、寒さのせいばかりではない。ようやく決心がつき、そっと戸を開け、消え入るような声で言った。

「ただいま」

 目を伏せ、無表情のまま立ち尽くす。するといつもと変わらぬ明るい母の声。

「お帰りなさーい。あら、雪だるまみたいになってるじゃない。早く戸を閉めて。ほら、ほら、早く。寒かったでしょう」

 そう言うと母は、にこにこしながら雪で真っ白になった帽子を取ってくれた。手編みのマフラーをくるくると回して首から外してくれた。オーバーについていた雪を両手で払ってくれた。なぜか急に目頭が熱くなった。

 風邪気味なのに無理して明るく振る舞っている母。それがわかっていただけに、優しい気遣いが痛いほど伝わってくる。

 母の正面に立ち、「あのわら半紙……ごめんなさい」と言って頭を下げ、オーバーの下に入れてあった紙袋を取り出した。

「えっ、何?」

 母はきょとんとしていた。

「これで練習……」

「あら、本。どうして?」

 不思議そうな顔をして紙袋から本を出し、しばらく表紙を見ていたが、ページをぱらぱらとめくり始めた。

「それが終わったら、次は漢字の練習だね」

 その言葉に母は戸惑いの表情を浮かべ、目を伏せたまま何も言わなかった。

 タッタッ。『ひらがな・カタカナ練習帳』と書かれた表紙に、その日二度目の涙がこぼれ落ちた。一度目とは違う涙。母はあわてて表紙を袖で拭い、大切そうに『ひらがな・カタカナ練習帳』を両腕で胸に抱きながら、何度となく頷いていた。

       

 祖母の葬儀後に父から聞いた話を僕は妻に語って聞かせた。

 妻は目を潤ませたまま黙っている。少しして思い出したように口を開いた。

「ねえ、教えて。この八文字はどういう意味なの?」

「なんとなくわかってると思うけど、その説明をしないとね」

 僕は父から聞いた通りに『才フロクイテハE』の謎解きを始めた。

「まず、最初の文字は漢字の才のように見える。でも、それはカタカナのオなんだ。次のフロはいいよね。四文字目はクじゃなくてワ。少し縦長になってるけど」

「お婆ちゃん、お父さんに伝えたかったのね」

 僕はこくりと頷き、説明を続ける。

「イテはそのままで、ハはル。右のレが少しはねてるだけだからハに見えるのは仕方がない。最後のEは」

「ヨを書いたつもりだったのね。でも、向きが逆になってる」

「その通り。だから、暗号文のようだけど、お婆ちゃんが書いたのは……」

 おもむろに立ち上がり、カーテンを開ける。妻も腰を上げた。

 僕は窓ガラスに息を吹きかけ、人差し指で「オフロ」と書いた。

 妻が横で指の動きを見ている。

 その下にまた息を吹きかけ残りの文字を書いた。

 それは雪がしんしんと降る中、夜遅く冷えきった体で帰ってくる息子を気遣った母親からの温かいメッセージだったのだ。

 窓を開けると冷気が不意に頬を打つ。花びらのような雪片が部屋の中にふわーっと舞い込んでくる。外は一面雪景色。

「きっとあの日もこんなふうに雪が舞ってたんだろうな」

 それから二人してベランダに出た。

 妻が顔を上に向け、雪のシャワーを浴びながら目をしばたたかせている。

 マンションのベランダから目の前に広がる銀世界を眺めていると、『ひらがな・カタカナ練習帳』をオーバーの下に入れ、肩をすぼめ、雪まみれになって帰ってきた父の姿が目に浮かぶ。

「お帰りなさーい」

 どこからか祖母の明るい声が聞こえてくる。そんな気がした。

「うー、さむ」

 体をぶるっと震わせた僕を見て、妻がそっと耳元で囁いた。

「オフロワイテルヨ」(了)


 楽しい週末を。Have a nice weekend.


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