掌編小説「言葉」シリーズ

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【第10回】『ポチ噛みつき事件』

2014.12.27 | 岩村圭南

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 二人と一匹。男の約束。

『ポチ噛みつき事件』

 右人差し指の付け根あたりに、ほのかに白い点がある。小学生の頃、犬に噛まれた傷跡が今でもかすかに残っているのだ。
 犬の名前はポチ。父が知人から譲り受けた雑種犬で、左耳の先が前に垂れ下がっていた。
 そのポチが玄関の三和土(たたき)で餌を食べている真っ最中に、うっかり手を伸ばしたのがいけなかった。左耳の先をピンと伸ばそうとしただけなのだが、餌を奪われると思ったのだろう。ポチは反射的に私の右手に噛みついた。
  まさかの出来事に一瞬凍りついたが、自分の身を守るため、やにわに立てかけてあった和箒を手に取り、二度三度とポチに向かって振り下ろした。たまたまその様子を見ていた父が、慌てて割って入り、手から箒を取り上げた。父は、傷口にちり紙をあて止血すると、二人 ── 正しくは一人と一匹 ── を並ばせ、これからは仲良くする、と約束させた。私は半べそをかきながらこくりと頷いた。ポチは自分がしでかした不始末をなんとなくわかっている様子で、その場に座ったまま動かず上目遣いに父の顔をじっと見ていた。
 この話には続きがある。
 日曜日だったと思う。近所の仲間と遊び、私は夕方帰ってきた。ふと玄関を見ると、引き戸が少し開いてる。そこからポチが前足を出し、その上に顔をのせ伏せている。前に男がしゃがみ、腕を繰り返し鼻先に押し当て、ポチがペロペロ舐めているようだった。
「何してるの」
 不意の問いかけに、男は驚いたように振り向いたが、突然、「噛まれた」と言い、上着の袖を突き出して見せた。
「ここだよ。この犬が噛みつきやがったんだ」
 風采の上がらぬ嫌な感じの男だった。どうやら上着の袖に噛みついたと言っているようだ。確かによだれがついている。私は玄関から「お父さん、お父さん」と大声で叫んだ。
 ドタドタと足音を立て出てきた父に、男は袖を見せ、「噛みついたんだよ、この犬が。ほら、ほら、ここだよ」とさかんに訴えている。私は父の耳元で、「ポチは舐めただけ」と囁くように言った。その時はわからなかったが、男は、あわよくば治療費、あるいは洗濯代をせしめようとでも思っていたのだろう。
 父は少しも動じた様子を見せず、袖を押さえ痛がる振りをしている男に、飄々とした口調で言い返した。
「ポチはな、あっ、この犬、ポチって言うんだけど、噛みついたりしないよ。それに、滅多に吠えもしない。番犬としては失格だな」
「どうしてそんなことが言える」と男が食い下がる。
「長くなるけど、いいかな」と父。
 男は怪訝な顔をしている。
「少し前にな、こんなことがあったんだ」
 そう前置きをして、父の長話が始まった。『ポチ噛みつき事件』の顛末を淡々とした口調で事細かに説明するものだから、男は黙って聞いているしかない。
「だから、その時以来、ポチは噛みつかなくなったんだ」で、ようやく父の長々しい説明が終わった。
 男はうんざりした顔で「何言ってんだよ。訳のわからない話をしやがって」と言い放った。
 すると父がまた説明を繰り返す。
「三人で、いや、二人と一匹か。とにかく、じっくり話し合ったんだ。ポチも息子も約束したんだよ。噛みつかない。箒で叩かない。お互い仲良くするって」
 男は一瞬顔を歪め、チッと舌打ちをすると、くるりと背を向けその場から立ち去った。
 父が満面に笑みを浮かべ、私とポチの顔を覗き込むようにして言った。
「男同士の約束だもんな」
 その言葉の意味がわかったのか、ポチは尻尾をブンブン振り喜びを爆発させていた。
 思い出すたび、頬が緩む。ポチは二歳の雌犬だった。(了)

 良いお年を。Happy New Year to you. I look forward to seeing you all next year.

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