掌編小説「言葉」シリーズ

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【第7回】『おいこら!』

2014.08.30 | 岩村圭南

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 半世紀も前の銭湯での出来事。

『おいこら!』

 私が子供の時分 ── 昨年還暦を迎えたので半世紀も前の昔の話だが ── 銭湯は格好の遊び場だった。
 週末になると、近所の仲間と連れ立って、手ぬぐいを肩に掛け軽い足取りで風呂屋に向かう。小学生のくせして気分は江戸っ子の若い衆。ちょうど三時。梅の湯の戸が開く時間だ。まだ客は入っていない。少しの間だが我が物顔で遊び回れるその時間帯を狙って、よし坊、たか坊、ぼくちん、けいちゃん(私)の四人で喜び勇んで暖簾をくぐる。
 脱衣場では無言のままさっさと着替え、洗い場に入って、戸を閉めたらもうこっちのもの。正面の壁には見事な富士、立派な松の木、青い大海原に白い波しぶきが描かれている。その壮大な景色の前で合戦を繰り広げるのだ。所々に桶と椅子がピラミッド状に積み重ねられている。それを盾にして、湯船から桶で湯を汲み、わーわー、きゃーきゃーと奇声を上げ相手にかけまくる。
 ひとしきりお湯掛け合戦をした後 ── 子供ながらそこはちゃんと心得ていて ── 桶と椅子をきちんと積み重ね直し、湯船にざぶーん。
 富士山を正面に見て、向かって左側がぬるめの湯、右側が熱めの湯で、こちらの方が少し深い。まず、左側に入り、体を慣らしてから右側へ移動するが、長くは浸かっていられない。のぼせる前に、ぬるめのお湯の方にまた戻る。
 一息つくと、今度は湯船の中で大はしゃぎ。両手で水鉄砲を作りお湯を飛ばし合う。ばしゃばしゃと泳ぎ出す。潜ってにらめっこする。他の入浴客が湯船に入ってくるまでやりたい放題し放題。
 あの日も、四人組で開店直後の銭湯でいつものように騒ぎ回っていた。そこまではよかったのだが……。よし坊の一言が予想だにしない出来事、いや、事件を引き起こす結果となる。
 二つの湯船は中程で仕切られている。潜って覗くと高さ30センチ、幅7、80センチほどの長方形の穴が開いている。
 何を思ったか、よし坊が「そこをくぐり抜ける」と突然言い出したのだ。
 潜ってからその位置と大きさを確認し、「行けそうだよ」と自信ありげに言った。
 興味津々で見ていると、よし坊はすーっと目一杯息を吸い込んでから湯の中に姿を消した。すぐに熱い湯船側に頭と肩が見え、するすると上半身が出てくる。そこまでは何の問題もなかった。だが突然動きが止まる。三人には湯船の底で何が起きているのか見当もつかない。体をよじりながら、両手で下半身を押し出そうとしている。
 すると「つっかえちゃったんだ」とぼくちんが言った。
 三人とも目を丸くしてお互いを見る。慌てて一斉に熱い湯に入り、引っ張り出そうとする。よし坊も抜け出そうと必死でもがく。思うように体が抜けない。けいちゃんが引っ張る。抜けない。たか坊がそれに続いて、手助けする。それでも抜けない。ぼくちんは泣き出す始末。ばしゃばしゃしぶきが上がり、とんでもない騒ぎになっている。まずい、と思った次の瞬間、背後から角刈りのおじさんが現れた。
「おいこら!おめえら何やってんだ」
「よし坊が!」
 湯船の中を指差し三人同時に叫んだ。
「何、よし坊?」
 咄嗟に事態を把握した角刈り ── この一件後、仲間内ではそう呼ばれていた ── は、熱い湯船の中にざんぶと入り、よし坊の様子を見て、機転を利かし、ぬるめの湯船に移動した。すると両足を持って手前にずるずると引きずり出したのだ。
 よし坊を抱きかかえ、洗い場のタイルの上に座らせる。助け出されたよし坊はぐったりしている。はーはーと呼吸が荒い。全身真っ赤っかのまさにゆでだこだ。腰には痛々しい擦り傷。角刈りがよし坊の頬をぴしゃぴしゃ叩いている。三人は放心状態で、両手を後ろにつき、腰を抜かしたように両足をVの字に広げ、洗い場のタイルの上にべたーっと座り込んでいる。
「なぜやめさせなかったんだ」と角刈りがまず一喝した。
 その言葉の勢いに震え上がる三人。よし坊はおじさんの両手の中でぐったりしていたが、その怒声でびくっとして我に返った。
「おめえら何年生だ」
「四年生。よし坊は五年生だけど」と消え入るようなけいちゃんの声。
「何で止めねえんだよ。死んじまうところだったじゃねえか。よし坊が一つ年上だろうが、下だろうが、危なえものは危なえって何で言わねえんだ」
 三人の体がV字開脚したまま凍りつく。
「おめえもよ」よし坊の顔を見る。「格好つけて馬鹿な真似しやがって。まったく。とにかく、おめえらも一緒に外へ出ろ」
 その後がいけなかった。おじさんがよし坊を抱きかかえるようにして起き上がると、三人はその場から脱兎の勢いで逃げ出してしまったのだ。
 また角刈りの大声が銭湯に鳴り響いた。
「おいこら!待て。仲間を置き去りにする気か。仲間を見捨てるたぁ、男の風上にもおけねえ奴らだ。そんなんじゃろくな大人になれねえぞ。情けねえったらねえ。尻尾巻いて逃げやがったか」
 脱衣場の隅で、たか坊、ぼくちん、けいちゃんが肩を寄せ合うようにして縮こまっていると、角刈りが丸椅子にどっかと腰掛け「こっちへ来い」と呼び寄せるなり滔々と説教を垂れ始めた。よし坊は横の椅子にぼーっとして座っている。角刈りの前に揃って気をつけの姿勢で立つ三人。
 そこに、「どうしたんだ、何があったんだよ」と言って他の入浴客が集まってきた。事の顛末をざっと語ると、勢いづいた角刈りは、また説教を始める。
 角刈りが言いたかったのは「危ないと思ったら止めろ。仲間を見捨てるな」の二点なのだが、それに尾ひれがついて、男とは、仲間とは、人生とは、何やらわけのわからない話になっている。
「悪いのは僕……」とよし坊がぽつりと一言。
「がたがた言わずに俺の話を聞けってんだ!」と角刈りが有無を言わさぬ命令口調で怒鳴った。
 涙目になるよし坊。
 すると助け舟が入った。
「ちょっとあんた、話が長いんだよ」
 おばさんのようなおじさんが割って入り、角刈りの頭をぴしゃりと叩いたのだ。
 下町の銭湯はまさにニューヨーク。職種の坩堝。いろいろな職業の人たちが集まってくる。顔見知りの近所のおじさん、駄菓子屋の店主に、鳶職の若い衆、大工の親方、入れ墨を背負った何やら異様な雰囲気のお兄さんもいた。奇妙な風体のおじさんは、今で言うニューハーフの走りだったのかもしれない。
 やっと説教が終わり解放されたと思ったら、もう一人やって来た。番台のおばちゃんが登場したのだ。てっきりこってり絞られると思ったのだが、優しくあっさり一言。
「だめだよ、気をつけないと」
 ほっとして四人とも申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。
 この話にはまだ続きがある。
 説教が終わると角刈りが「みんなの背中を流せ」と命令を下したのだ。結局、そこにいたおじさんたちの背中を、元気を取り戻したよし坊も含めて、四人でせっせと流す羽目になった。
 この話にはさらにおまけがある。
 風呂から上がった後、角刈りが「冷たいもんでも飲みな」と言ってご馳走してくれたのだ。怒られたのを忘れるほど美味しかった。
 それからも週末になると四人して銭湯に行ったが、洗い場で控えめにお湯掛け合戦をし、湯船でも地味に両手水鉄砲で遊んでいた。あの一件以来、お湯の中に潜ることは決してなかった。
 そういえば、最近、子供たちを叱りつける鯔背な近所のおじさんを見かけなくなった。あの角刈りの「おいこら!」がなぜか懐かしく思えてくる。(了)

 楽しい週末を。Have a nice weekend.


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