掌編小説「言葉」シリーズ

【第5回】『気』

2014.06.28 | 岩村圭南

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 ある漢字にまつわる話。

『気』

 会社帰りのビジネスマンで賑わうショットバー。先に着いた二人が飲み始めている。
「メールで連絡があった。少し遅れるって。どう思う、あいつ。あの落ち込みようは普通じゃないよな」
「ああ、特に朝がひどい。何かぐったりした感じで」
「来たら聞いてみるか」
 しばらくして話題の人物が店に入ってくる。無言のまま二人の横に座った。顔には全くと言っていいほど生気がない。
「どうしたんだよ。冴えない顔して」
「そう見える?」
 無表情のまま力なく聞き返す。
「いつもの元気がないというか」
「顔に覇気がないんだよな」
「会う人会う人に、そう言われる」
「何かあったのか」
「言えば気が晴れるぞ」
 少し間を置いて「実はね。失くしたんだよ」と重い口を開いた。
「何を」とまるで示し合わせたかのように二人同時に聞く。
「何をって。大切な物」
「警察には届けたのか?」
「早いほうがいい。それだけ見つかる可能性が高くなる」
「警察?失くしたのは、満員電車の中なんだけど」
「電車の中か」
「だったら駅で遺失物について聞いてみたら」
「そうだな。そうしようか。まだそんなに夜遅くないし。今から行ってくるよ。このままここで飲んでて」
 弱々しい語気でそう言うと、立ち上がり店を出て行こうとする。
「見つかるといいな」
「きっと見つかるよ」
 二人が励ますように声をかけた。
 振り返りながら「ああ」とぼそっと言い、肩を落とし両手をだらりと下げ、無気力な足取りで駅へ向かった。

 駅の忘れ物取扱所窓口で。
「すみません」
「はい。何でしょうか」と係員。
「あの……」
 そう言ってから、黙り込んでしまう。
「網棚に何か置き忘れたんですか」
「いいえ、失くしたんだと思います」
「失くした?何をですか?」
 少し待つが、答えが返ってこない。
「落とし物ですね」と確認する。
「違います。落とし物じゃなくて、失くしたんです」
「あ、そうですか。失くしたんですか」
 係員の顔に戸惑いの表情が浮かぶ。
「一つだけじゃないんですけど」
「では、失くした物をすべてここに記入していただけますか」と少しじれたように応じ、用紙を手渡した。
「あの、失くしたのは『気』なんですけど」
「えっ、『木』ですか?材木?」
「いいえ。ツリーの『木』じゃなくて、スピリットの『気』、『気持ち』の『気』です」
 抑揚のない口調で説明する。
「スピリット?気持ち?」
 怪訝な顔をして聞き返す。
「ええ、そうです。その『気』です」
「うーん、まあ、とにかく、ここに書いてください。その……『気』を」
「わかりました。ここですね」
 陰気な声でそう言うと、用紙に次々と文字を書き込んでいく。
 ポールペンの動きが止まる。係員が覗き込む。顔つきが一変する。
「失くした物って、これですか」
「毎日満員電車に揺られ、この駅で降りる時には、抜け殻のようになっていて」
「はあ」
 目をしばたたかせ、ぽかんと口を開けたまま聞いている。
「僕の『気』は、今どこにあるんでしょうか。今朝は八時半にこの駅に着きました。きっとまだその電車の中にあると思うんです。どの電車なのか調べて、一緒に探していただけませんか。お願いします」
 係員が用紙を手に取り再度確認する。
『元気、覇気、やる気、根気、気力、気合い、意気込み、本気、強気、気迫、負けん気、心意気……』
 最後は『下』のように見える一文字だけ。しかも歪んで波打っている。途中で書くのをやめたのだろうか。
 顔を上げた係員をうつろな目で見つめ、魂が抜けてしまったような声で言った。
「このままだと困るんです。し、正気を失ってしまいそうで」(了)

 楽しい週末を。Have a nice weekend.


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