自分の美徳
いくつか勝ち筋はあったが、最後のチャンスは▲4三歩に対し、△4一金と引く手だった。
▲4二銀には△同金と取っておけば、相手の攻めはかなり細くなり難しかったという。
気付かず、△4三同金と取ってしまったため、はっきり負けにしてしまった。
そう、自分で道を断ち切ってしまったのだ。
詰まないのは分かっていて、矢継ぎ早に王手をかけた。
最後のあがきである。見苦しいかもしれない。
しかし私はそれをあえて自分の美徳とした。
詰めろをかけて、最後は甲斐さんに委ねた。
私の玉は一歩攻め間違えると入玉を狙えそうだ。
しかし、甲斐さんは正確に私の玉を詰ましに行った。
▲6四角~▲7三飛の王手で上部に逃げられないようにしている。
投了図以下は6三にどの駒を合駒しても▲5二金、△6二玉と逃げる手も▲7二金△5一玉▲5三飛成で詰みである。
私の玉は息絶えた。周りの駒たちも次々に。
最後まで生かせてあげたかった。
小さなため息が自然と漏れた。
勝ちにこだわり、最後まで戦い抜くことができた。
そういうプラスの感情は確かに残る対局ではあった。
しかし、それを満足と呼ぶのなら私に将棋を指す資格はないだろう。
勝負の世界を生きる人間にとって、満足するということは自分に終止符を打つことと同じだ。
将棋とはたった一人で戦うため孤独を感じることも少なくない。
しかし、私が負けることは同時に盤上の駒たちが死ぬことを意味する。
生きるか死ぬかの真剣勝負。“今”を感じその瞬間をどう生き抜いていくか、
それが将棋の醍醐味だ。
「楽しみながら将棋を指す」ということは私の大きなテーマだが、それはけっして決して浮ついた気持ちで駒を進めるということではない。
この限られた枠の中でどう駒たちを生かすか、そして自分をどう生かし自分らしさ表現するか、そういうことだと私は思っている。
敗戦の後、しばらくは負の感情の水たまりから抜け出せない。
しかし、水たまりはいつかは乾く。
暖かい陽の光でいつの間にか消えてなくなってしまう。
そうしたらまた私は歩き出すのだ。進化のための旅に。