「駒を生かしてあげたい」
冬の空が好きだ。
天井が高くてストンと突き抜けている。
私はいつも通り新宿から将棋会館まで歩きながら一つ深呼吸をした。
ひんやりした空気が体に染み込んで、気持ちも引き締まる。
筋雲がかかった薄い水色の空に新宿御苑の黄色い落ち葉が舞っていた。
▲甲斐 智美△貞升 南
持ち時間各3時間(チェスクロック使用)
初手からの指し手
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △8四歩
▲6八飛 △6二銀 ▲3八銀 △4二玉
▲1六歩 △1四歩 ▲7八銀 △3二玉
▲4八玉 △8五歩 ▲7七角 △5四歩
▲3九玉 △5二金右▲5八金左△4二銀
▲2八玉 △5三銀左▲6七銀 △7四歩
▲9六歩 △4二金上▲4六歩 △6四歩
(第1図)
第1図からの指し手
▲5六銀 △4四銀 ▲9八香 △5五歩
▲4七銀引 (第2図)
対局前のトレーニング
対局開始15分前に入室。
見慣れない光景がそこには広がっていた。
対局室にはカメラが設置してありいつもと全く違う雰囲気だった。
果たしてこの空間で私は冷静に将棋と向き合うことが出来るのだろうかという不安が頭の中をよぎったが、それも一瞬のことで、対局に向けあれこれ講じている自分がいた。
今回予選を通過し本戦に出場することは久しぶりと言ってもいいくらいの大きな喜びであった。
だからといって、本戦に出場するだけで満足してはいけない。
そこで勝つことに意味があるのだと自分に自分でプレッシャーを与え、この日の対局に焦点をしぼり時間をかけて自分を整えた。
甲斐さんと指すのは今日で3局目であり、6月の対局で負けたばかりである。
勝率も私よりもはるかに上で、私にとってかなりの強豪であることは間違いないが、
同じ相手に3度も負けるわけにはいかない。
勝負師ならそう考えるのが当然である。
くやしい思いを自分にさせた相手に再び負けてしまうことは「くやしい」の一言には収まらない苦しさが湧いてくる。
敗戦をどう生かすか。
それが対局前のトレーニングにおける重要なキーワードとなり、「自分らしい、自分が得意とする将棋に持ち込む」これを心に決めて初めの一手を指した。
引き寄せる一手
甲斐さんは四間飛車で、美濃囲い。
私はいつも通り居飛車で船囲い。
割と早いペースで進めてきたが、甲斐さんが指した▲5六銀を見て指し手を止めた。
それが予想していなかった手だからではない。
次の一手で今後の方向性が決まる。
そしてそれにより勝利の行方が大きく左右されるだろう。
それが見てとれたからだ。
頭の中を血がものすごい勢いでドクドク巡っている。
ドクドク、ドクドク。いつもそうだ。この音で自分を見失ってしまう。
自分がかき消されてしまう。時間はたっぷりある。
自分を見失わずに、何をするべきか、何をやりたいかもう一度自分に問う。
序盤であるが、ひたすら考えた。
いろんな可能性も手段も考えられるところだが、甲斐さんの流れになり自分がそれに飲まれてしまうことだけは避けたかった。
盤上に広がる可能性を一つ一つ拾い上げて吟味する。
ただ単に見るだけでなく、距離を置いたり、別の角度からも見てみる。
丁寧に一つずつ。それが勝利という光につながるかどうか見ていく。
△4四銀。それが考え抜いた末に私が出した結論だった。
5筋位取りの将棋にしようと決断。
過去にも何度も指したことがあり、流れを一気に自分に引き寄せる一手だと考えた。