勝負どころ
矢内は、リラックスしていた。
ボーっとしていたと言っても良い。
まだ午前中でもあるし、勝負どころはしばらく先だと考えていた。
良く言えば百戦錬磨、悪く言えばそれが女流のレベル、ということになろうか。
3時間の将棋においては、このあたりはお互い、
もっと腰を落として考えなければならない場面である。
6手「も」進んでようやく昼食休憩。次の一手が、ハイライトである。
第4図以下の指し手
△2五同銀▲同 歩△3三桂▲5六歩
△4五桂▲4六銀 (第5図)
ファンのためなら
直江さんは、感激していた。
憧れの環那先生が奮闘しているのを間近で見ることができて、
やっぱり今日は来て良かったと思った。
ましてやこんなすごい手が見れるなんて。
昼休み明けの第一手で、鈴木はなんと自分の守りの銀を、相手の桂馬と交換した。
何という過激な一手だろう!
僕は中継室でこの手を見た。
ひと目、無謀。
もしかしたら終わりが近いかもしれない。
そういう悪い予感を胸にしまって、
スポンサーの方々にこの後の鈴木の狙い筋を解説した。
それから、今度は彼女の魅力について話してもらった。
口をそろえて出てきた言葉は「ファンを大切にしてくれるところ」
対局中のメモには「スポンサーを意識してのことか?」とある。
当然否定されると思いつつも本人に聞いた。
返ってきた答えは
「指さないとみんな帰れないかもと思って。できれば思い切った手を見せたかった」。
僕は二の句が継げなかった。
それを見た鈴木は
「流されてしまった、対局中ぐらい周囲を気にしないほうが良かった、次はもっと時間を使って考えたい」
そうやってひとしきり反省してみせたあと、最後にこう言った。
「でも気持ち良かった。後悔はないです」
こうして、鈴木の挑戦は終わった。
「もう一度矢内さんと当たりたい。私、一度目はいつも負けるんです」
と彼女は明るく言った。