大きな溜め息
1ミリ単位で形勢が変わるほどの微妙な激戦。
勝敗の分岐点は非常に難しいのだが、
渡辺明竜王によれば第4図直後の▲5四銀が敗着だったという。
ここでは▲1四飛と逃げておき、
△2二角ならそこで▲5四銀として先手が有力だった。
待望の△2七歩(第5図)。急所の叩きだ。
甲斐の前傾がさらに深まり、脇息にもたれながら口をハンカチで押さえている。
ほとんど同じタイミングで、里見もフェイスタオルを口元に当てた。
完全にシンクロして見えた光景だが、その意味合いは正反対だったのかもしれない。タオルを当てたまま、里見はとても大きな溜め息をついた。
第5図以下の指し手
▲2七同玉△1五桂▲1六玉△4九飛成
▲同 銀△2七銀▲2五玉△3四金
▲1四玉△5七角成 (投了図)
まで84手で甲斐の勝ち。
多感な少女
△4九飛成。
甲斐がちょっと気だるそうに飛車を切って、大勢が決した。
「里見さん、残り10分です」
返事の代わりに力なく▲4九同銀と応じる。
相変わらず頬は真っ赤に染まっていたが、それは局面に没頭しているせいではなかっただろう。以降、両者ともほぼノータイムの指し手が続く。
午後4時29分、後手の角が馬に変わった瞬間、
里見は「負けました」と消え入りそうな声で言った。
夕刻、私は将棋会館の門前で、長旅の帰途に向かう里見母娘とすれ違った。
今度は、声を掛けられるような状況ではなかった。
抱きかかえるようにしてゆっくり歩く母親の腕の中で、娘は泣きじゃくっていた。
少女から女へ、女から勝負師へ……またひとつ修羅の道を歩んだ里見香奈は、束の間、多感な少女に戻った。