戦国武将に学ぶ、ビジネスに活きる“11”の企画 事例詳細|つなweB

1.城をテーマパークにして人気を保つ「織田信長」

織田信長は、城を今で言うところのテーマパークにしていました。『信長公記』によると琵琶湖のほとりに安土城をつくったときには、入場料を取って、城内を見学させたという逸話も残っています。自慢したかったのかもしれませんが。さらに、城下の家々に灯りを配って、安土の町を夜間にライトアップしたイベントも実施しています。昔から地域の祭は存在していたのですが、それを城という自分の影響のおよぶ範囲で大規模に行うことで、新しい統治者を宣伝したのでしょう。

本社をユニークにするということでは、IT企業も多く施策をしています。古くはGoogleのビリヤード台から、最近ではDMMのプロジェクションマッピングされたオフィスなどもそうでしょう。共通していることは、訪問した人が面白いと思うこと、そして、中の人がそれを自慢できるという2点が大事なポイントです。

大規模なイベントを開催して自社をアピールするという手法は、現代の企業でもよく使っています。イベント参加者が面白いという体験をし、それを自慢(今で言えばSNSで拡散する)することを狙っていたと言えます

 

 

2.強い逸話でイメージアップ「加藤清正」

加藤清正は、熊本では伝説になっています。江戸期、熊本は細川家が納めていたにも関わらずにです。清正は大男だったと言われて、虎を退治したという逸話も残っています。おかげで、今でも祇園の料亭の遊びにある「とらとら」では、清正をモデルにした虎退治が残っています。

武将という職業ですから、強いというイメージが定着することは重要です。よいイメージを残すストーリーを残したということが後世まで語られる理由でしょう。

ソフトバンクの孫正義さんがミカン箱の上で演説を行ったという逸話や、スティーブ・ジョブズの演説のように後世に残るストーリーを考えるのもブランドを確立するための方法の1つでしょう。

加藤清正が築城した熊本城。武闘派のイメージもある清正ですが実は内政にも長けており、熊本城築城の土木工事は農閑期に行い、きちんと賃金を払うなど農民の立場を考えていたそうです。それは伝説になるほど人気になりますよね

 

 

3.名前をブランディングに活用「毛利高政」

九州の豊後の国(大分県あたり)、佐伯藩を治めた毛利高政という豊臣秀吉の部下だった武将がいます。秀吉の部下なのに、毛利という名前なのは、「あれ?」と思う人もいるかもしれませんが、実は改名しています。

もともとは森さんでした。ですが、九州の地を治めるにあたり、毛利のほうが強いイメージを持つので、秀吉が改名させたのです。もちろん、本家の毛利家の許可ももらった上でした。名前の持つ効果を最大限に発揮した武将と言えるかもしません。

企画においてネーミングはとても重要ですが、自身の名前もブランドですからね。普及させた自社サービス名に社名を変える会社も多いですが、そう考えると今も昔も同じなのかもしれません。

大分県佐伯市の街を一望できる山城を拠点にした毛利高政。最大で中国地方全域と九州の一部まで領地を拡大した毛利家のイメージは当時の九州でも健在で、この地を治めるにあたり効果を発揮しました

 

 

4.システムを軽くし値段を下げる「北条早雲」

戦国時代黎明期の実力者・北条早雲は、小国の大名から伊豆そして小田原城をはじめとする関東一円の覇者となりました。その理由の1つとして、「低価格作戦」があります。具体的には、年貢の比率を周辺諸国と比べて安く設定したのです。5公5民、4公6民といえば、税金が半分か、住民の方が多い比率です。その原資は官僚の数を減らすなどの固定のシステムを軽くしていたことにあります。それにより戦をすることなく、諸国が寝返り、規模が大きくなることでより効率的な運営ができるようになったのです。

通信の世界のソフトバンクの初期ユーザー獲得とインフラ整備に似ていますよね。

年貢(税金)を安くすることで他国からの移住者を増やし、国力増強につなげました。年貢が安い分、人件費を削減するなどの工夫をしていました

 

 

5.プラットフォームで利益を上げる「豊臣秀吉」

豊臣秀吉がつくった大阪城は有名ですが、秀吉が後世まで大阪にもたらしたのは商品流通のプラットフォームです。日本全国のすべての米はまず大阪に集められました。そして、価格が決まり、在庫され、日本中に配送されたのです。この機能が江戸時代以降も存続したので、大阪には古くからの商社が多いのです。

秀吉がつくったのは誰もが便利に商品を得られる仕組みでした。秀吉はこの大阪のプラットフォームから利益が得ることができたので、政権を維持することができたのです。Amazon、ZOZO、ヤフオク!、メルカリ、楽天などのプラットフォームと同じです。

豊臣秀吉は財を蓄えることにも際立った能力を持っていました。今でいうプラットフォームを構成し、そこから誰でも利益を得られるシステムをつくりました

 

 

6.外国と提携して組織安定化「大友宗麟」

豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟は、キリシタン大名でした。かのフランシスコ・ザビエルも大分には教会を構えていたくらいです。実際に教会を構えるには、領主の許可や領主の支援が必要です。宗麟はその支援をする交換条件で、外国から医療技術を導入しました。当時はヨーロッパのほうが医療技術は上でしたので、最先端技術の輸入です。また、貿易で儲けも大きく豊かな国として、豊後は運営されたのです。提携をすることで組織を安定化させる先駆者と言ってよいでしょう。

日本(自分の業界)にない最先端技術を持っている外国と提携することで、組織を強く安定化させた大友宗麟。大友側の交換条件は、当時外国が日本に布教を広めたかったキリスト教の保護でした

 

 

7.インフラ整備で人を集める「徳川家康」

徳川家康が今の日本に残した最大の遺産は、河川を整備してインフラを整備したことです。例えば、利根川は今では千葉の銚子まで伸びて太平洋に注いでいますが、流路を変え、人がたくさん住める環境を整備していったため、江戸時代ではその時代の世界の中でも多くの人口を抱える大都市になったわけです。

江戸は家康の統治以前は寒村だったと言われていますが、今では見る影もありません。人が賑わうためには、人が沢山滞留できるインフラの整備が必要なのは、オンライン配信も新しいシステムも同じですね。

徳川家康が江戸に異動を命じられた時は、広大な湿地が広がる土地だったようです。それを人が住みやすく整地し、埋め立てまでして人が集まる場を整えたのです

 

 

8.課題に直結した施策を実現「山内一豊」

高知城は、家康の命令で国替えされた山内一豊が築城しました。高知県は雨が多いので築城には技術が必要でした。現在でも最も雨が多い都道府県ランキングで1位です。そこで、石垣の中に雨を通すための蛇口という新構造を取り入れました。蛇の口のように通常の石垣から飛び出た石があり、そこに水を通すのです。ですから、今も高知城に行くと飛び出た石から雨の日には水が勢いよく噴出して、石垣は倒壊しないのです。

高知城の石垣に、突如突き出た部分があります。これが蛇口で、ここから水を出すことにより大惨事を防いでいました。「雨が多い」地域という状況で起きやすい課題に対し、柔軟なアイデアで解決した例ですね

 

 

9.人の記憶に残る企画立案「伊達政宗」

「独眼竜」で知られる伊達政宗は、桶狭間の戦いや関ヶ原合戦のように戦での逸話ではないところで非常に有名な人物です。これは、戦以外でのパフォーマンスが秀逸だったためでしょう。

秀吉に降伏するときにも死を覚悟しているということで白い死装束で登場したり、粋で洒落た人のことを「伊達者」、正月のお節料理の中に「伊達巻き」という名前の料理が残っていたりします。甲冑の兜の形もユニークですが、それが映画「スターウォーズ」のダースベーダーのモデルになったと言われています。記憶に残るように企画は時を超えて残るのかもしれません。

伊達政宗はカラフルな水玉柄の着物が残っていたりと、当時からすると奇抜な出で立ちや振る舞いで人々の語り草となり、記憶に残るパフォーマンスを多々残しています。豊臣と徳川という巨大な権力の間を生き抜くための知恵とも言えます

 

 

10.自社の強みを最大限に活かす「雑賀衆」

雑賀孫市(さいか・まごいち)という雑賀衆の棟梁がいました。司馬遼太郎の小説『尻啖え孫市』で有名になりましたが、雑賀衆と言われる人達は、鉄砲を武器にした傭兵でした。石山合戦と呼ばれる戦では、織田信長も負傷したという逸話もあります。

雑賀衆は、さまざま武将の助っ人として働くのです。今で言うフリーランス的な働き方です。それも最新鋭の技術、鉄砲を扱うことができました。彼らの特徴は、海運と貿易をしていたことでした。火薬や弾を自身で集めることができたのです。最新鋭の技術だけではなく、使うための道具も彼ら自身でなんとかできるというのが傭兵としての売りだったのです。

当時最先端の技術(鉄砲)、そしてそれを使うために必要な物資を自力生産できたのは雑賀衆にとって非常に強みになりました。当時の大名はこの強力な助っ人をパートナーに雇い、戦いに臨んでいました

 

 

11.美談の中にビジネス企画あり「上杉謙信」

「敵に塩を送る」という言葉は有名ですが、この言葉は山国を領地とする武田信玄が隣国の今川家と戦をして塩の入手が困難になっているときに、同じく交戦中の上杉謙信が塩を送ったという逸話から来ています。

謙信は「義の人」と言われ、敵に情けをかけてもおかしくない、と思われる方も多いでしょう。しかし実際は、ビジネスチャンスとして捉えていたとも言われます。武田領は海に面していない内陸地なので、塩は他方から購入するしかありませんでした。その購入先が塩を売らなくなる中、上杉家だけ塩を売れば、当然通常の何倍もの売り上げが上がるのです。武田は助かり、上杉は儲かる。いわばWin-Winな関係になります。

軍神と呼ばれ戦争に強いイメージもある謙信ですが、実はビジネスのセンスもあったのですね。

実際に隣国から助けを乞われれば見捨てず力になる、戦国時代では珍しい行動をとっていた上杉謙信。「信義に厚い」というイメージから「塩を送る」逸話も美談として語られるようになったのでしょう

 

美崎栄一郎
※Web Designing 2019年6月号(2019年4月18日発売)掲載記事を転載

関連記事