第1回 Web制作業界の新たなマーケット「トリセツ」
さまざまな商品やサービスの使用説明・取扱説明書、いわゆる「トリセツ」に関する国際規格が改定され、電子データで提供することが可能になった。しかしそこには、これまでのWebにはない、義務や責任が生じる。この連載では、そんなトリセツのWeb化について集中的に解説をしていきたい。
取扱説明書のWebによる提供が解禁
Web制作業界は、コーポレートサイトやキャンペーンサイト、ションピングサイト、ランディングページなど、さまざまな分野にビジネスの範囲を広げてきたが、ここに来て今後大きく成長する可能性がある新たな分野が登場してきた。「テクニカルコミュニケーション」である。馴染みのない言葉だが、実は誰もがお世話になっている。普段利用している家電製品や自動車といった商品の「使用説明」(「取扱説明書」や「トリセツ」と呼ばれるものだけでなくカタログやリーフレットも含む)は、テクニカルコミュニケーションの成果物だ。
使用説明のほとんどが、紙に印刷し製本された形態で提供されている。Webが使われることがあっても、紙の使用説明を補足する副次的な立場でしかない。その最も大きな理由は、「使用説明を紙で提供するべき」だとする規定がこれまで存在していたことだ。しかし最近になって、この規定がWebや電子媒体での提供を積極的に推奨する方向に180度方向転換した。製品(サービスを含む)や利用者、提供方法によっては、紙での使用説明の提供を全廃し、すべてをWebで提供することも許されるようになる。
使用説明のコンテンツは莫大だ。メーカーが積極的にWeb化、電子化を推進するようになれば、Web業界にとって次なる大きなマーケットに成長する可能性がある。
Web化・電子化の取り組みが本格化する
ところでテクニカルコミュニケーションとは、顧客に製品の使用方法や、技術的・実務的(テクニカル)な情報を伝える一連の活動であり、原稿の作成、制作プロセス、制作技術など、さまざまなノウハウや技術的な要素を抱える。高度の専門的な知識・技術が要求される分野であり、この業界に従事する人たちの啓発や情報共有、そして業界の発展をサポートする団体がある。それが、一般財団法人テクニカルコミュニケーター協会だ。同協会は、日本を代表する製造業を中心とするメーカーが会員として参加しており、過去25年間、国内のテクニカルコミュニケーションの世界で指南役として活躍してきた。
同協会でシンポジウム開催などの責任者を務める株式会社情報システムエンジニアリング 代表取締役 黒田聡氏は「使用説明においてWTO加盟国が業界標準、国際標準を作る際に従うべきガイドラインを示したものが『ISO/IEC Guide37:1995』(消費生活用製品の取扱説明書に関する指針)。これには使用説明を製品と一緒に(すなわち紙媒体として同梱)提供すべきと規定されていた。Webは対象から外されていたのだ。これに対して、2012年に発行された『ISO/IEC Guide37:2012』や使用説明の国際規格『IEC82079-1』は、使用説明の提供媒体としてWebがあると、はじめて明記した規格だ」と説明する。2012年からすでに2年近く経過するが、まだ大きな変化が見えない理由として、黒田氏は、「たとえば一般コンシューマー製品の場合は、景品表示法、公正競争規約など、強制力あるルールがあるが、これらのIEC82079-1に沿った改正がまだ追いついていないためだ」と語る。すなわち、これらの整備が完了すれば、Web化や電子化の流れは加速するだろう。
PL法への配慮と可用性の担保
ここで注意すべきは、IEC82079-1は法的な強制力は持たないが、「缶入り塗料のような素材からソフトウェア製品までを含む、あらゆる使用説明に関する史上はじめての国際標準」(黒田氏)だということだ。ISO/IEC Guide37は業界/国際標準を作成するために手本とするガイドラインだったが、IEC82079-1はものづくりを行うすべての企業が、品質の基準とすべき国際標準である。罰則はないが、国際標準を満たしていないことに対するリスクは小さくない。
「使用説明も製品の一部。ものづくりにおいてはスタンダードを上回ることは当然であり、品質要求があるのにそれに達していない場合、企業が製造責任に問われるリスクとなる」(黒田氏)
しかも、使用説明に関する責任は、品質保証や事業部ではなく、経営者が背負う非常に重いものなのだ。紙の使用説明は、製造物の欠陥により損害が生じた場合の製造業者等の損害賠償責任を意識した制作が要求されていた(すなわちPL法への配慮)。使用説明のWeb化でも、紙同様の緊張感が要求されることになる。黒田氏は「Webサイトは、表示や広告規制に関する法律だけを意識していればよかったが、使用説明に求められる景品表示法、家庭用品品質表示法、公正競争規約を守る必要が出てくる」と説明する。Webの発注側と受注側で、これらの法的な知識と関連するコンテンツ制作上の配慮が必須となってくるわけだ。
さらに使用説明の大きな要件として、「可用性の担保」がある。Webは情報の新しさや鮮度が評価の基軸だが、使用説明の場合は「製品のリリース後、製品の予想耐用年数の間、使用説明をユーザーにコスト負担を強いることなく、確実に提供しつづけることが義務付けられる」(黒田氏)。頻繁に構造やコンテンツが変わる従来のWebとは考え方が根本から異なり、長期保存を可能にする可用性を担保する仕組みが必要だが、いまのWebにはまだこれがないことが多い。テクニカルコミュニケーター協会としては、 啓発活動を促進し、業界団体に対してWebで配信する場合のPL対策のルール付けなど、働きかけていくという。
業界標準ができたことで明確にいえることは、「紙に注いでいた品質管理、リスク管理をWebに持ち込まなければならず、この部分の議論がまだなされていないが、国際標準の基準に適合するか否かを押さえることができれば、どんどんWebに情報を載せることができるということでもあり、新しいチャレンジの機会になる」(黒田氏)という。
Web化・電子化はガラパゴスから標準へ
実は日本は使用説明の電子化において、世界でもっとも積極的な取り組みが行われてきた。意外なことにIT先進国の米国では、企業がPL法のリスクを恐れて使用説明の提供は紙に留めてきたからだ。ただ、日本におけるその手法はメーカーによってばらばらであり、国内外に浸透していくことはなかった。いわば、ガラパゴス状態だったわけだ。
ユーザーからは、「紙は見ない」「Webで見たい」という声が年々大きくなっている。一方で紙を捨ててWeb化によるコストダウンやコンテンツ管理の効率化に期待する企業も増えてきた。タブレットやスマートフォンの潜在的な可能性に期待する声も大きい。
HTML5や、ePub、Kindleなどの電子書籍形式、スマートフォンやタブレットにおけるアプリなど、活用できる仕組みや仕様は、さまざまにある。今後は、メーカー独自の規格ではなく、ユーザーによって自然に形成されていく標準化技術をうまく使いながら、品質や可用性、リスク管理などが満たされた使用説明の電子化が進んでいくと考えられる。
本連載では、使用説明のWeb化、電子化について、リスク管理や運用、そして技術の観点からより深く掘り下げ、Web業界のみなさんがテクニカルコミュニケーションという新しい世界で活躍できるヒントを提供していく予定だ。