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『と金の将ちゃん』の作者、神保あつし先生の仕事場拝見♪

2016.11.18

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田名後編集長の制作現場潜入レポート

『と金の将ちゃん』神保あつし先生宅編


2016年秋
埼玉県所沢市の神保邸にて
(構成、鈴木健二)


田名後 本日は「『と金の将ちゃん』制作現場に潜入!」という企画でやって参りました。よろしくお願いいたします。
神保 それを聞いてホッとしました。雑誌の編集長がわざわざ来てくださるときは、大体いつも、連載打ち切りの話ですから(笑)。


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連載のきっかけ

田名後 将棋世界で連載を始めたのはいまから26年前、平成2年8月号からでした。きっかけを教えてください。
神保 当時は4コマ漫画がブームで、多くの連載を持っていました。そのうちの一つ、少年画報社の担当者と親しくしていたのですが、その方が「異業種交流会」というところで、当時、日本将棋連盟出版担当理事だった田丸先生(昇九段)と知り合ったのですね。そのときに田丸先生から「誰か将棋に詳しくて、面白い漫画を描ける人を紹介してくれませんか」とお願いされたそうで、彼は僕のことをベストに選んでくれました。


田名後 田丸先生がスカウトされたのですね。
神保 将棋は小学生の頃までは指していたけど、プロの将棋については、詳しいどころか何も知らない状態だった。でも田丸先生とお会いして話をしているうちに、「これは面白そうだな、やれるかもしれない」と思えてきました。「それじゃあ、やってみませんか」「はい。お願いします」といった感じで始まって、それが今日まで続いています。田丸先生には、7月に開かれた佐藤天彦名人の就位式で、久々にお会いすることができました。
田名後 その名人就位式では、私も神保さんに初めてお会いすることができしました。お電話はよくしていましたが、直接お話しできたのは初めてでしたよね。
神保 いえ実は、羽生さん(善治三冠)と谷川さん(浩司九段)がA級順位戦のプレーオフを戦ったとき(第64期、平成16年3月)にお会いしているのですよ。当時、将棋会館にあった編集部を尋ねていったら、田名後さんに「よかったら控室に行ってみませんか」と声をかけていただいて、大勢の棋士が継盤で検討をしているところを、生で見ることができました。あのとき田名後さんにはとても親切にしていただいきまして、とても感謝しております。

将棋漫画の苦労

田名後 そうだったのですか。すっかり忘れていて、大変失礼いたしました。それにしても、いきなり知らない世界の漫画を描くとはすごいですね。
神保 将棋の内容については、いまだに全くわかりません。なので、人物に焦点を当てて描くようにしています。ただし、実在のモデルがいるので、普通の漫画でやっているように、キャラクターを好き勝手に描くわけにはいきません。読者にそれが誰だかわかるように、似せて描かなければならないので、写真などの資料集めは大変でした。
田名後 どの棋士もよく似ています。
神保 棋士は個性的な人が多いですよね。最初は毎回資料を集めていたのですが、続けていくうちに、棋士ごとのファイルを作るようになりました。過去に描いたキャラクターを保管して、また次に描くときに参考にしています。



田名後 何か苦労されていることはありますか。
神保 将棋はネタが少ないですね。自分が創作する漫画なら登場人物に何をさせるのも自由だけど、将棋の場合は、「本当に、この人がこんなことをしたり言ったりするのかな」というのがよくわかりません。プロ野球の選手や芸人さんのように、酒を飲んだりバカ騒ぎをしているところが見られませんし、私から見たら、プロ棋士はどこかすましているような感じがします。なかなか、地の姿が見えてこないので、「この人たちの本音はどこにあるのかな」と思うことはあります。
田名後 でも、うまく世の中の出来事に絡めて描かれていますよね。
神保 いやー、無理やり引っ付けているだけですよ(笑)。

こだわりの仕事部屋

田名後 この仕事場でペンをとるようになったのは、いつ頃からでしょうか。
神保 15年くらい前からですね。僕はいま66歳なのですが、漫画を描き始めてかれこれ30年になります。前はこの近くのマンションに住んでいて、そこで15年ぐらい漫画を描いていました。子どもは3人いるのですが、大きくなってくると部屋数が必要になってくるじゃないですか。それで女房と一緒に1年くらいかけて物件を探し歩き、この中古住宅を見つけました。それを大工をやっている義兄に相談しながら、使いやすいように自分で設計して、いまこうして住んでいます。
田名後 ご自分で設計されたのですか。すごいですね。
神保 設計といっても柱や梁は動かしようがないので、間取りを考えたりとかですね。あと仕事をしやすいように、整理棚とかも設置しました。


田名後 資料や過去の生原稿がすごく整理されていますね。切り抜きとかもご自分でスクラップされているのでしょうか。
神保 これはいま94歳になる僕の母が、整理してくれています。何か仕事があったほうが暮らしに張りがあるじゃないですか。とても喜んでやっていて、頼んでいる分がなくなると、「次のを早くちょうだい」と催促されます(笑)。
田名後 ご出身も所沢なのでしょうか。
神保 いえ、僕は新潟県燕三条の生まれです。原田先生(泰夫九段・故人)がすぐ隣の分水町の出身でした。いまは合併して一つの市になっていますね。40年ぐらい前に、母がまずこっちに引っ越してきて、僕はまだ新潟のデザイン会社で働いていたのだけど、やっぱり「どうしても漫画家になりたい」と思って、追うように出てきました。当時は「漫画学校」というものがあって、そこに通いました。

手塚治虫先生の思い出

田名後 師匠はいたのでしょうか。
神保 いえ、師匠はいなかったです。手塚治虫先生の作品を専門に出している、虫プロ商事という会社でアルバイトをしながら学校に通っていたのですが、そのうち学校が潰れて、実家が経営している旅館と料理屋が潰れて、会社が潰れて。行く先々が潰れていくので、すごく不安でしたね(笑)。
田名後 手塚先生とお会いしたこともあるのでしょうか。
神保 手塚先生のお宅に原稿を取りにいったりしましたよ。手塚先生が漫画を描いているときは、背後に編集者がべったり張り付いて、寝かせないようにしていました。手塚番と呼ばれるたくさんの編集者が、天丼や牛丼の出前を取りながら、長時間、待機していました。ひとつの仕事が終わると「はい、次の方」といった感じで。休みなく働く姿を見て、ちょっと気の毒に思いましたね。ある朝、原稿を取りにいったときに散歩している手塚先生とすれ違ったのですが、そのあとに先生が転んでしまって、手だか足だかを骨折されたことがありました。そのときに、「あれは、わざとじゃないか」という声が上がったくらい、忙しい毎日を過ごされていましたね。
田名後 西武線沿線といえば、漫画家が多く住んでいることで有名ですね。
神保 南長崎にはトキワ荘(手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫などが住んでいた伝説のアパート)がありましたし、富士見台には虫プロ(手塚治虫が創設したアニメーション専門の製作会社)がありました。
田名後 まさに、「漫画家の聖地」みたいな感じですね。

ちばてつや先生への感謝

神保 話は変わりますが、最近「日本漫画家協会」に加入したんですよ。ちばてつや先生が理事長を務めている団体です。4年前に漫画学校の同級生で、『まんだら屋の良太』などを描いていた畑中純さんという方がお亡くなりになったのですが、その方の遺品展で、ちば先生にお会いしたのですね。実は僕が高校生のとき、ちば先生に漫画の原稿を郵送して、「僕は漫画家になれるでしょうか」とお手紙で尋ねたのですよ。そうしたら、ちば先生は「なれますよ」と返事をくれて、すごくうれしかった。そのときのお礼がしたくて、「あのときの言葉を励みにして、いまこうして漫画を描いています」というような話をしたら、ちば先生が、「そうなんだ。よかったら漫画家協会に入らない?」と誘ってくださって、「入ります、もちろん入ります!」と、二つ返事で決めました(笑)。
田名後 ちばてつや先生は田丸九段と交流があり、草野球チームでキャッチャーをされていて、日本将棋連盟の草野球チーム「キングス」と練習試合をしたこともありますね。将棋もお好きなようで、漫画の中に登場させたりしています。
神保 そうなんですか。人の縁というのは不思議ですね。

フリー業

田名後 『と金の将ちゃん』のほかには、どんなものを描いているのでしょうか。
神保 バレーボールやバスケットボール、ゴルフなどのスポーツものや、家電の販売員、ビルのクリーニング屋さんなど、いろんなものを描いていますね。でも将棋同様、やったことのないものがほとんどですね(笑)。実際にやったことがあるものしか描けないようでは、とても漫画家は務まりません。

(実際に「と金の将ちゃん」のラフを描く神保さん)

田名後 現在、抱えている連載はどのくらいあるのですか。
神保 新聞掲載が1つと、週刊漫画ゴラク(日本文芸社)、それに月刊誌が4本ですかね。
田名後 それだけあると、アイデアを考えるだけでも大変ですね。
神保 確かに大変だけど、やっていて楽しいですよ。特に60歳を越えてからは、「幸せだなあ」と思えるようになりました。それまでは子育てもあるから、どうしても「明日から仕事がなくなったらどうしよう」「食えなくなったらどうしよう」という不安が先に立っていました。ようやく子どもが成人して、いまでは趣味に近い感覚になっています。プレッシャーから開放されると不思議なことに、主人公がよく動きだして、面白い漫画が描けるようになってくる。仕事なのでこういう言い方をしたらお叱りを受けるかもしれませんが、いまは本当に楽しくやらせてもらっていますね。
田名後 私も早く、その境地に達したいです。
神保 この仕事は時間も自由に使えるじゃないですか。根を詰めて描けば、平日に連休を取って女房と旅行に行くこともできる。そういう意味でも、いまは幸せですね。

舞台設定の裏話

田名後 『と金の将ちゃん』は日本料理屋さんが舞台になっていますが、これはなぜでしょうか。
神保 先ほども話しましたが、僕の実家は料理屋をやっていました。カウンターに入って仕事をしたこともありますし、だいたいのことはわかります。あと、舞台を料理屋にしておけば、設定を読者に伝える必要がありません。主人公が料理を作っていて、ほかの登場人物はお客さんだとわかります。例えば主人公をサラリーマンに設定すると、いまこの舞台はどこで、何をしているところなのかを最初にうまく説明しなくてはなりません。
田名後 なるほど。そういった事情があるのですね。
神保 楽をしているといったら聞こえが悪いですが、読者に余計な手間を取らせないという面でもよかったと思います。ところで、いつも僕は好き勝手に棋士を描かせていただいていますが、先生方からお怒りの声とかはありませんか? 顔も似ているかどうかわかりませんし、嫌がられているんじゃないかと、申し訳なく思っています。
田名後 そんなことはありません。読者にも好評ですので、これからも、どんどん面白いことをしゃべらせてあげてください。
神保 そう言っていただけると助かります。そういえば、将棋連盟の控室にお邪魔したときに、ある若手棋士から「いつか『と金の将ちゃん』に載ってみたい。それが夢です」と言われました。とてもありがたい話ですね。
田名後 これからも将棋ファンのために、生き生きとした漫画をお届けください。本日は、どうもありがとうございました。