2026.08.08
【今日は何の日】1998年、村山聖九段が亡くなる
1998年8月8日、村山聖八段が亡くなりました。日本将棋連盟はその功績を讃え、翌9日付で九段位を追贈しました。
今回は、「怪童丸」と呼ばれ、誰よりも強くありたいと願い続け、短くも鮮烈な生涯を駆け抜けた村山聖九段の足跡を振り返ります。
1969年6月15日、村山聖は広島県安芸郡府中町の3人きょうだいの末っ子として生まれました。
5歳の頃、腎臓の難病であるネフローゼ症候群にかかっていることが判明。当時はネフローゼへの治療法が確立されておらず、村山は長期的な入院生活を余儀なくされます。
そんな中、入院中に父から教わったのが将棋でした。体調不良もものともせずにメキメキと実力を伸ばし始めた村山は、アマチュア大会でも活躍を見せます。当時は(そしてそれ以降もずっと)「名人になりたい」が口癖だったといいます(大崎善生『聖の青春』講談社、2000年)。
森信雄に弟子入することで奨励会に入会し、1986年にプロデビューしました。病気による不戦敗もありながら2年11カ月でのプロデビューは驚異的なスピードです。
同期は羽生善治、佐藤康光をはじめとする、いわゆる羽生世代。
羽生に対しては特別な感情があったようで、デビュー2年目にして対戦したC級1組順位戦で逆転負けを喫した際、村山は感想戦終了後も盤の前から動けず、「何て、強いんだ」とつぶやいたとされます(『聖の青春』)。
一方で佐藤に対しては強い対抗意識を持っていたことが知られており、のちに佐藤は将棋世界で以下のように述懐しています。
彼とは2人で酒を飲んだり、遊んだりという事は一度もなかった。牽制しあう所があり、必ず誰かをはさんで行動していた。麻雀は何回か打った。
(中略)
私の推測だが、私の将棋は全面的に彼に認められていなかったと思う。彼にとっては羽生さんしか眼中になかったのかもしれないが、何げない一言や行動でそれを感じていた。彼は即興の将棋は嫌っていた。私の将棋は多少、そういう面を持っている。
そうであれば仕方がない。手段は一つ。対局で盤を挟み、徹底的に叩きのめす他はない。私も燃えたぎっていた。
史上まれに見る強力なライバルたちに揉まれながら、1992年の第42期王将戦でついにタイトル戦初登場を果たします。迎え撃つは前年に当時の七大タイトルでグランドスラムを成し遂げ、名実ともに棋界のトップに立った谷川浩司。
しかし結果は村山の4連敗。谷川の壁はあまりに厚く、高く立ちはだかっていました。
それでも村山は、1995年には順位戦でA級に昇級、1997年には第30回早指し棋戦優勝(自身にとって初の全棋士参加棋戦優勝)を果たし、着実に頂点への道のりを歩み続けます。
ところがこの頃から再び体調が悪化。1997年には順位戦もB級1組に降級。さらに膀胱がんも見つかり大手術も受けることになります。
手術後はNHK杯では決勝で羽生に敗れるも準優勝と大健闘。順位戦A級復帰も果たしますが1998年の春にがんが再発・転移が発覚し、村山の休場が決定。
広島大学病院に入院しますが、8月8日、転院した広島市民病院で息を引き取りました(享年29歳)。
今わの際でも棋譜をそらんじ、最期の言葉は「2七銀」であったとされています。
本人の希望で葬儀は近親者(と師匠の森)のみで行われ、その後に人々は訃報に接することとなり大きな衝撃と深い悲しみに包まれました。
当時の『将棋世界』(1998年10月号)は村山の追悼号となり、森、谷川、羽生、佐藤らが追悼文を掲載しました。
村山がこの世を去って2年後、かつて村山と親交があり将棋世界編集長でもあった大崎善生が村山を描くノンフィクション小説『聖の青春』を発表。
翌年には藤原竜也主演でテレビドラマ化。そこからさらに15年後の2016年には松山ケンイチ主演で映画化もされています。
村山の勝負に懸ける熱い闘志と、病と闘いながらも夢を追い続けたその生き方は、今なお多くの人々の心に勇気を与え、そして愛され続けています。
それではまた。
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