2026.08.04
【将棋世界こぼれ話】糸谷哲郎九段の哲学的将棋観
発売中の『将棋世界』9月号の巻頭特集「AI時代、我々はどう戦う」で、糸谷哲郎九段のインタビュー「AIが指さない将棋に価値を求めて」を掲載しています。
紙数の都合で泣く泣くカットした、糸谷九段の哲学的視点から見た将棋観の話を、番外編としてお届けします。
(聞き手・田名後健吾)
糸谷九段と哲学
──糸谷九段は、大学で哲学を専攻されて修士課程までいかれました。お名前の「哲郎」は、哲学にちなんでお父さんがつけられたとか。哲学は人生の大きな指針にもなっているのだろうと思います。大学では、マルティン・ハイデガー(1889-1976)について研究されたそうですね。私は哲学はさっぱりわかりませんが、哲学的視点から糸谷先生は将棋という存在をどう捉えていらっしゃいますか?
糸谷 ハイデガーの哲学は、基本的に「現存在」といわれる存在者、いまを生きている存在者に重きを置きます。ハイデガーにいわゆる遊戯論(遊び、についての議論はありましたがチェスや将棋についてはちょっと)があったかどうかちょっと失念しましたが、将棋自体に関しては、ハイデガー的には現存在によって意味を見出されているもののひとつとみなされると思います。そもそも将棋というゲームは、人間(プレイヤー)がいないと全く意味をなさないしルールを理解しないと全く意味をなさない。たとえば将棋というゲームを知らない人たちが将棋盤や駒を見ても、ただの木の工芸品だと思うでしょう。そこに「将棋」という意味を理解する現存在が実存することによって、初めて将棋盤や将棋駒であるといえます。
──高尚な説明に、いきなり面くらってしまいました(笑)。大学の修士論文では、ヒューバート・ドレイファス(1929-2017)という人をテーマに選ばれています。人工知能(AI)研究への批判で知られる哲学者だそうですね。ドレイファスは「人間の知性は、単なる計算やルールの集積では説明しきれない」と主張した人物だとか。どのような点に関心を持たれたのでしょうか。
糸谷 ドレイファスは、ハイデガーの研究者だったこともあってテーマに選びました。簡単に説明するのは難しいんですけど、ドレイファスはチェスプレイヤーでもあって、面白いことに当時(1967年=編集部調べ)のチェスAIと対戦して負けているんですよ。
──えっ、そうなのですか?
糸谷 ドレイファス自身はチェスのアマチュア有段者なのですが、人間がどうやってチェスのような技術について熟練していくのかに強い関心を持っていて、弟(数学者のスチュワート・ドレイファス)と一緒に「ゲームの発達段階」について研究しており、詳細なモデル(ドレイファス・モデル)を提唱しているんです。その中で、自分たちに比べて同じサークルの達人たちは何が違ったのか、という話をしています。
──で、どこが違ったのですか?
糸谷 達人になった人たちは皆、ブリッツ(早指し)を好んでいた、という点です。ドレイファス弟は、よく考えることができない早指しというものを嫌っていましたが、早指しによって鍛えられる何かが達人、プロフェッショナルにはあるはずだと推測しています。それは反射的なものだろう、みたいな話をしていたり、そのへんも面白いところです。
──なるほど(笑)。
糸谷 ドレイファスは当時のAIに対して「人間が行うのと同じようにはできていない」と批判しているんですけど、現代のAIは、ドレイファスが批判した古典的なAIとは異なるアプローチで成果を上げています。
人間の思考量の差を生むもの
──ドレイファスは、「知性は計算とイコールではない」と言ったそうですね。
糸谷 これはエキスパート・プログラムというものがありまして。エキスパート、つまり専門家ですね。1970年代の話なのですが、簡単に言えば、専門家に自分の頭の中にある全ての「条件付け」を語ってもらって、それを全部入力したマシンを作れば、その専門家と同じ能力を持ったマシンができるのではないか。人間の知識というのは、多くが頭の中に普段、しまわれているのだろうと。その箇条書きを全部出してコンピューターにぶち込めば、同じ判断力を持つんじゃないかと考えたわけです。ただ、これは成功しなかったんですね。
──なぜですか?
糸谷 人間の知性というのは結構、ブラックボックス部分が多くて「何となく」で判断しているところがあるからです。将棋で例えれば「なぜあなたは初手に▲7六歩や▲2六歩を指すのですか?」と聞かれたときに「駒の利きがいいから、効率がいいから」とか言いますけど、実際には“こんな手はない”と何の言語化もせずに勝手に選択肢から外している部分が非常に多くて。
──思い込みとか、先入観みたいな感じですかね。
糸谷 そうです。ただ、思い込みとか先入観というニュアンスだと、どこか悪いことのように思われがちですけど、逆に初めから人間が持っている見方がなかったら人間は深いところまで考えられないんですね。よくコンピューター将棋の話で枝切り(探索の省略)について出てきますが、同じように人間の脳も無意識に読みを切っている。
──何でもかんでも全て考えていたら先に進まないからですか。
糸谷 人間の脳の計算力自体には相当な限界があるからです。だって、初手の有効な選択肢が何通りあるかって聞かれても、咄嗟には答えられないですよね。でも常識として▲2六歩か▲7六歩を指しているわけで。そういうのはいわば人間式「枝切り」なんです。要するに、その枝切りがうまくなることが、実際の思考の精度上昇につながるということ。一手一手全ての合法手を考えていたなら、おそらく数手の読みでプロでもパンクしてしまうと思います。
──なるほど。
糸谷 もちろん(慣れるにつれて)人間の計算量はだんだん増えはしますが、莫大に上がっていくわけではない。私は、人間の脳の思考量自体は、それほど個人差はないと思っています。ただ、枝切りだったり勘の捉え方みたいなものは各人によってめちゃくちゃ差があって、その差がたぶん思考量の差を生むんだろうなと思っています。脳自体の計算量は、せいぜい2倍から4倍くらいじゃないですかね。ただ、勘さえ捉えてしまえばすぐなので、その捉え方のすごくうまいアプローチができさえすれば、実際の仕事量は何十倍にもなる。
──そのアプローチのうまいヘタが、達人とそうでない人との差ということでしょうか。
糸谷 たとえばある時点でのコンピューターは(力任せに)全部を計算する方法でいっていたと伺いました。チェスは計算とイコールではないんですけど、現状は計算によってコンピュータは人間の知性よりも上の結果を出すことに成功しているわけです。将棋に限らず、もし人間の知性をエミュレート(模倣)できるようになれば、つまり、人間の枝切り方法を、さらにうまくミスしないやり方で模倣できれば、コンピューターはもっとすごい結果を出すのかもしれません。私はドレイファスと異なり、AIがいずれ人間を全ての面で超えていくだろうと考えているので、いつかその思考法でも人間を超えると思っています。人間の刈り込み量に加えてコンピューターの計算量があれば、もっと先まで読めるようになる可能性はあります。
先入観や偏見は必要不可欠!?
──修士論文のテーマにドレイファスを選んだのは、彼がハイデガーの研究者だったからということですが、チェスAIとも関連していたというのも偶然にしては面白いなと感じました。でも、ハイデガーの哲学は将棋とは直接関係ないようですね。
糸谷 多少は関係あると思います。人間がどういう風にものを考えているか、捉えているかっていうのが私の哲学的なテーマなので。ハイデガーは「現存在(人間)」がどのように過ごしているか、どういう環境で生きているかっていうのを探求している方でもあるんです。いわゆる偏見とか先入見とかいうものが、人間にとっては必要不可欠なんですよ。悪く言われがちですけど。よく「眼鏡(めがね)」に例えられることが多いんですけど、先入観とか「どういう角度からその物事を見るか」が人間には必要で、そうじゃなければ物事を考える思考がたぶんまとまらない。究極の客観性なんてものは、ほぼほぼ何も言っていないに等しいだろうということです。
アプローチの仕方がカギ
──糸谷九段が学んできた哲学というのは、将棋に生かせそうな学問なのですか?
糸谷 将棋というか、準備段階とかには生かせますかね。
──準備段階?
糸谷 結局「どういう手を私たちは無意識に排除しているのか」と、それに対する「なんでその手を排除しているのか」というアプローチが必要なんですね。自分がいま、勝手に頭で読む、身についてしまっている思考の癖をクリアにする、みたいなことが自分の中でできるようになるので、それはプラスだと思います。そういうアプローチ次第で、自分の脳で無意識に見える手と、本来見えているはずだけど勝手にオミット(除外)している手っていうのを出せる。そういうアプローチの仕方がある、ということに気がつけるとかは、たぶんここからじゃないですかね。ただ、ほとんどの場合、別にそこまでアプローチする必要はないんですよ。いろいろなことの理由付けはできて、よく「筋のよい棋譜を並べよう」とか言うじゃないですか。筋が悪いことばっかりやっていると、慣れてしまって筋が悪くなるとかいうような。あれは結構この話に近いと思っているんですよ。慣れ親しむに従って、人間はそうじゃない手を先入観で勝手に除外しがちなんです。でも、それが必要なときもあって、▲7六歩、▲2六歩以外のすべてを考えていたららちが明かないよねっていう。だから、そうしたよい除外が出来るように、筋がいい将棋とかプロの将棋とか、駒落ち定跡とかを習って、慣れて、その慣れに従ってやるしかないよねと。本当のことを言うとこれ、能動的に枝切りしているというよりも、直感的に数個の手しか見えないようになっているんですけど。数個の手、要するに自分が見る方角がある程度、固定されるんです、盤面に対して。余談ですが、プロが何も考えないで指すと指導対局などで勝ってしまう、というのはこの能力に長けているからだと思われます。
──#$%&※*@・・・・!?
糸谷 と言っても難しいですよね(笑)。例えば、すべての物事をすべての方向から見ることは、人間には不可能じゃないですか。必ず1つの面から見ますよね。
──確かにそうですね。
糸谷 将棋の初形で、▲7六歩とか▲2六歩とか常識な初手が表面(おもてめん)だとして、裏面には例えば▲8六歩とか▲5八金左とか悪手の面があったとします。強くなるためには、基本的には表面から見なきゃいけないんですよ、選ぶ根拠というか感覚というものがあるので。▲5八金左とかそういう手は考える必要はありません。でも、限定状況下によっては裏面のアプローチも必要なことがある。中盤とか終盤とか難しい局面になってくると、表面だと思っている手が必ずしもよい手かと言われると、微妙なところがあるんですね。
──なるほど。だから中盤・終盤は難しいのですね。
糸谷 そういうときに「眼鏡を替えられる」というか、見方を変えることができるかどうかが重要になってくるんです。
──その能力が高い人が、トップにいけるということですか?
糸谷 わからないです。トップにいくから眼鏡が替えられるのか、眼鏡を替えなくてもそれ以上に何か深いアプローチができればいいのか。そもそも眼鏡を替えられること自体がそこまでプラスかって言われると、いらないところで替えちゃう恐れもあるのでマイナスの可能性もある。ただ、アプローチを替えられるというのは強みだとは思いますね。問題は「アプローチを変える」というのがよいことかどうか。ビジネスとかでもそうだと思いますけど、固定のアプローチが1つあって、大体こうするとうまくいっているけれど、違う場合があるっていうときに、柔軟にやり替えられる能力っていうのは、ともすれば普通のやり方をやっておけばいいところで変なことやって失敗するリスクと背中合わせですよね。で、このまるっと全部見えている状態というのは、たぶん究極の客観性だと思うんです。でも、そんなこと人間にできないですよね。
──確かに。
糸谷 だから想像する客観性というのは、右から見て、左から見て、上から見て、中を想像して、その全ての物事を思い描くことはできますけど、それが真の客観性かと言われるとよくわからないですよね。人間は「見方を持たないと物を見ることができない」というのは、そういう意味です。全部(の方向)をいっぺんに見ることは無理だという。
──いやあ、深いお話です(笑)。
糸谷 将棋で言うと「全ての手が読めるわけじゃない」ということ。どんな強い人でも、1つの局面で全ての手を読んでいるわけじゃなくて、適切な見方によって読む手を決めているんだと。で、読む手をどれだけ深くアプローチするかの量を変えているのは、人それぞれだと。例えば読む手に詰まったときに、他のアプローチから読み直せるみたいなことも、実力のうちだということです。
──では、藤井六冠はどうだと思いますか。
糸谷 藤井さんは初見の局面でも非常にうまくアプローチされるので、もともと詰将棋などでわかっている思考力も上だし、おそらくアプローチの仕方も素晴らしいのだと思います。ちなみに、アプローチが狭くても、その狭い結果が正解だったらそれでいいんですよ。直感が正解なら問題ない、と言う話がありましたが正解ばっかりアプローチする人だったら問題ないんです。
──でも、実際には常に正解だけを選ぶことはあり得ないんでしょうね。
糸谷 角換わり定跡系とか、一本道の終盤とかの限定状況下だったら作れると思うんです。一本道で攻め続けるみたいなのでだいぶ絞ってしまう、という形にして。
──なるほど。角換わりがこれだけ盛んなのは、皆がそれを突き詰めようとしている、ということですか?
糸谷 角換わり定跡系におけるアプローチは結構、共通しやすいんじゃないかなと思います。ただ、突き詰めるというよりも角換わりという戦型に対して詳しくなればなるほど、そこへの見方という点で優位に立てるのではないかと思います。 (発売中の『将棋世界』9月号本誌のインタビューも、ぜひご覧ください)
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