2026.04.28
海外支部の特別な日 叡王戦が照らしたシンガポール支部の情熱
叡王戦第1局に沸いたシンガポール。ここには日本将棋連盟シンガポール支部があり、国籍を問わず将棋を楽しむ人たちが集まっている。今回は叡王戦レポート番外編として、支部メンバーの将棋への思いを聞いた。
「将棋の力は大きい」日本将棋連盟シンガポール支部の活動
世界には日本将棋連盟の海外支部が54支部ある。そのひとつ、シンガポール支部は、多国籍の人々が将棋を通じてつながる場所として活動を続けてきた。今回、叡王戦がそのシンガポールにやってきたことは、現地の将棋ファンにとって特別な意味を持つ出来事だった。
2010年から2025年まで支部長を務めた安部圭一さんに、支部の日常について聞いた。
「シンガポール支部は、毎月一回、例会を開催しています。毎回の参加人数は30人前後でしょうか。参加者同士で対局をするのに加えて、昇級試験を行っています。日本将棋連盟の方とも相談させていただいて、級位者までは正式な認定証を出せるようにしています。参加者は日本人の方と、それ以外のナショナリティの方とでフィフティ・フィフティですね。シンガポール人に限らず、フランス人、ベトナム人、香港の人もいて、国籍は多様です。外国の人とコミュニケーションを取ろうと思えば、普通は言語の習得が必要なんですが、ここでは将棋のルールだけ知っていれば誰とでもコミュニケーションを取れて、対局を通じて仲よくなれますから、将棋の力というのは大きいなと思います」
支部は単独で活動しているのではなく、現地に自然発生的にできた将棋コミュニティ同士をつなぐ役割も担っているという。
「例えば、プンゴルという地域でボードゲームの会を主宰しているギャリーという人がいるんですが、将棋も指されていて、うちの支部にも参加して仲よくやってくれています。他にも、ネクサスインターナショナルスクールという学校に将棋部がありまして、そこの責任者であるハンガリー人のデイビッドという人も、支部の活動に参加してくれたり、生徒さんたちを連れてきてくれたりしています。そうした各グループごとにやり方が違うこともあるのですが、その違いは尊重しつつ、何かイベントがあったときは一緒に楽しむということをしています」
そうした土壌があるからこそ、タイトル戦の開催は支部にとって大きな歓喜だった。海外で将棋を覚えた人にとって、プロ棋士に直接会える機会は決して多くない。
「シンガポールで将棋を始めた人たちにとって、プロ棋士と会える機会というのは極めて限定的なので、スーパースターの方たちと間近で会ったり、写真を撮ったりできるというのは大変に貴重な機会だと思っています。私自身、テレビでしか見たことがない人たちとたくさん会える機会だったので、すごくうれしかったと同時に、すごく緊張しましたね。前夜祭では、小さな子どもたちや外国人の人にも抽選で色紙などの賞品が当たっていて、『今日ここにきて本当によかったな』と大喜びしているのを聞いて、私も自分のことのようにうれしかったです」
今回の大盤解説では、通訳の存在も大きかった。これもまた、現地のファンにきちんと内容を届けたいという支部の思いから実現したものだったという。
「大盤解説の通訳については、実はシンガポール支部から今回リクエストさせていただいたんです。2024年に行われた国際将棋フォーラムで石川さんが通訳されているのを拝見して、簡潔でわかりやすい通訳をされていたので、ぜひ今回の大盤解説もお願いしたいと思いました。日本将棋連盟の方が迅速にアレンジして下さって実現となったわけなんですが、おかげさまでお金を払っていらっしゃっている外国人の方にとって、すごくフェアな大盤解説会になりました。大きな意義があることだったと思います」
初のシンガポール人支部長
その安部さんの後を引き継いで、今年から新たに支部長となったのが、Zhuo Loon Limさん、通称リオンさん。
日本語がペラペラなので、日本文化に興味を持つ一環として将棋を覚えたのかと思ったが、そうではなかった。
「将棋が先ですね。中学生のときに友達に将棋を教わって、一瞬で惹かれてしまいました。それから日本語や日本の文化を学びました」
将棋を入り口にして日本文化を理解するようになったというのがとても興味深い。
「日本語は美しい言語だと思います。自然に相手に尊敬を払うことができて、仕組みからして友達と親しくなりやすい言語だと思います。あとは、歴史にも興味がありますね。実は、関ヶ原に行ったこともあるんです」
そんなリオンさんに、日本の文化とシンガポール文化の融合について聞いてみた。
「相手を敬う日本の文化では、対局の前に『よろしくお願いします』と言うように教えています。負けるときに『負けました』というのも、勝ったほうも謙虚にそれを受け止めるというのもすごくいい文化だと思うんです。一方、シンガポールのいいところは、人情的に温かいことだと思っています。だから感想戦になれば、活発に自由に話すことが多いと感じます。だからシンガポール支部では、礼儀もしっかりしたうえで、打ち解けやすいかなと思います。将棋を通じて、2つの国のいいところが両方出ているかなと思いますね」
シンガポール支部には最近、タイトル戦の開催を前にして大きな出来事があった。アジア支部対抗戦での優勝だ。東南アジア地区将棋大使を務める小林健二九段が呼びかけて始まった格式のある大会で、アジア各国の支部にとってプライドをかけた重要な舞台だ。ホーチミンで行われた昨年の大会で、リオンさんの率いるシンガポールチームは実力拮抗のマレーシアと決勝で激突。リーダーのリオンさんが勝って優勝を引き寄せた。
「運がよかったと思います」と謙遜するリオンさんは、実力、人望ともに申し分なく、シンガポール支部初のシンガポール人支部長になる。
「安部さんが作られた環境が本当にすばらしかった。私もシンガポール人と日本人のかけ橋として、みんなで仲よく指せる場所を目指しています」
海外在住の外国人として初めて、将棋普及指導員にもなったリオンさん。叡王戦の開催に何を思うか、改めて聞いた。
「シンガポールでタイトル戦が行われることは心からうれしいです。プロ棋士を大変尊敬していますし、また私はシンガポール人で、自分の国を誇りに思っていますので、日本の先生がここにきて、シンガポールの美しい文化や料理などを体験していただけることをうれしく思っています」
「こんなに学ぶことがあるなんて」将棋の奥深さに受けた衝撃
そんなお話をしていると、安部さんが話していたギャリーさんが現れた。少し照れながらもお話を聞かせていただけることに。
各国のボードゲームを幅広く遊ぶ中で、日本の将棋にも触れるようになった、シンガポール支部らしい文化のつながりを象徴する存在だ。
「私にとって最高のゲームは長い間チェスでしたが、昨年の10月に安部さんとリオンさんから将棋を教わってからは、将棋を指している時間の方が長いです。99%の時間は将棋を指していますね。私はもともと日本文化に興味があって、写真や雑誌の中で将棋を見かけることがあったのですが、『このゲームは日本語が読めないとできないに違いない』と思い込んでいたのです。将棋の駒は漢字で書かれていて、1手指すたびに手元の表を見ないといけないから、すごく難しいものだと思っていました。ところがある日、藤井聡太さんもそれで将棋を学んだという、公文式の将棋セットを見つけたんです。矢印がついていてすごくわかりやすい。それを手に入れてしばらくしてから、アジア文明博物館でシンガポール支部の人たちに会ったんです。昨年の王座戦には間に合わなかったのですが、その1か月後に初めて彼らから将棋を教わりました」
初めての対局は、衝撃的だった。
「支部のメンバーと初めて指したとき、その人は駒を6枚も落としたんです。こんな状態でどうやって勝つんだろう?と思いましたよ。でも結果は、私の負けでした。若い頃だったら悔しかったでしょうが、今の年齢で新しいゲームを学んでいる自分にとって、それはとてもうれしいことでした。このゲームの戦略が非常に奥深いということがその一局でわかったからです。『学ぶべきことがこんなにたくさんあるんだ』と幸福な気持ちになりました」
そして今回、シンガポールで大きな対局の舞台を目の当たりにできたことを、ギャリーさんは心から喜んでいた。
「シンガポールでこのような対局が2回も行われたのは、とても幸運なことだと思っています。もし来週とか来月になってから将棋を学んでいたとしたら、振り返ったときにものすごく大きな機会損失だったと思ったことでしょう。前回、タイトル戦が行われたのは1993年だったんですよね(編注:第6期竜王戦七番勝負第1局、羽生善治竜王-佐藤康光七段)。もし、私があの公文式の将棋セットをもっと早く見つけていたら、私のチェス人生はまったく違うものになっていたかもしれないと思います。でも、どちらも互いに助け合うものなんです。片方を学ぶことで、もう片方のよさもよりわかるようになります。すばらしいタイミングでシンガポール支部の皆さんと出会えたことを本当にうれしく思っています。おかげで、このすばらしい対局を見ることができました」
将棋は盤上の勝負であると同時に、人と人を結ぶ文化でもある。シンガポール支部が育ててきたのは、まさにその実感だったのだろう。叡王戦の開催は、現地の将棋ファンにとって、憧れの棋士を近くに感じる機会であると同時に、自分たちの積み重ねが確かに実を結んだ瞬間でもあった。
