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すべての人を幸せにする理想的な「ノーマライゼーション」

文●牧野武文

山梨県にある私立駿台甲府中学校に一人の難聴を抱える生徒がいる。中学二年生の本山悠くんだ。障がいを抱える生徒がごく普通の学校生活を送るにはどうすればいいのか?生徒、親、学校、そして開発者が「ノーマライゼーション」という言葉で1つになる理想的な景色がそこにはあった。

会話を見える化するアプリ

山梨県甲府市にある駿台甲府中学校に通う二年生の本山悠くんは、聴覚に障がいを持つ。音声だけのコミュニケーションは難しく、人工内耳と読話(唇の形を読む)の組み合わせ、あるいは手話を使ってコミュニケーションをしている。ところが、本山くんが通っているのは特別支援学級ではなく、ごく普通の学級だ。その中でほかの生徒同様の授業を受け、学校生活を送っている。それを可能にしてくれたのが、会話を見える化するアプリ「UDトーク」だ。授業をする教師は、胸からブルートゥース接続のマイクをぶら下げている。その音声は本山くんの机の上にあるiPadと教壇にあるiPadに送られ、UDトークによって文字化され、次々に表示される。

実際の授業風景を見学させていただいて意外だったのは、本山くんはこのUDトークを補助的に使っているという点だった。授業時間の7、8割は、教師や板書に注目していて、読話と板書に頼って授業を受けている。読話では難しい箇所があると、UDトークで確認をしているという様子だった。つまり、UDトークに頼り切りになっているのではなく、授業を受けている様子は他の生徒とまったく変わらない。

 

 

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山梨県甲府市にある駿台甲府中学校(【URL】http://www.sundai-kofu.ed.jp/junior/)。山梨県トップの中高一貫の私立中学校で、「チャレンジング・スピリット」を建学の精神に掲げ、一人一人に応じた深い愛情に根差した教育を行う。

 

 

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本山悠くん。小学校4年生から、さまざまな中学の学校説明会に出席し、ご両親のアドバイスを受けながら、自分の意志で駿台甲府中学校への進学を決めた。

 

 

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UDトーク-コミュニケーション支援・会話の見える化アプリ

【作者】Shamrock Records, Inc.
【価格】無料(一部アプリ内課金で使用可)/ 法人向けプランもあり
【カテゴリ】App Store>ライフスタイル

日本語音声認識エンジンのAmiVoice(アミボイス)を使って、会話/スピーチをリアルタイムに文字化する「UDトーク」(http://udtalk.jp)。多言語音声認識エンジンや翻訳機能も搭載しているほか、QRコードをカメラで読み取ってアプリ同士を接続して会話のやりとりを行ったり、手書きでやりとりしたりもできる。下の写真は、iPadを持って体育館の集会に参加する本山くん。

 

 

「信頼関係」と「団体行動」

本山くんは小学校のときは特別支援学校に通っていた。ご両親は「熱心な先生方が多く、本当に感謝しています」という気持ちでいっぱいだと語る。しかし、問題を感じていないわけではなかった。その1つは、熱心な教師が数年で異動をしてしまうということだ。「せっかく息子が先生と親しくなれて、信頼関係が築けたところで、その先生が異動になってしまうのです」。赴任してくる教師は、特別支援の専門家ではなく、一般の公立学校からの異動であることも多い。そうなると、教師もそこから専門知識を学習し始めなくてはならない。信頼関係の構築もゼロからのスタートとなってしまう。

さらに、従来は盲学校、聾学校、養護学校と専門に分かれていたものが、現在は特別支援学校として一本化される傾向にある。新しく来た教師は、さまざまな分野の専門知識を学ばなければならず、負担も大きい。「先生方が大変なのは、理解しています。でも、先生が専門知識を学ばれている間も、子どもはどんどん成長していってしまうのです」。

ただし、ご両親はこのことを残念に思っても、不満として学校に伝えることは躊躇した。市町村の予算には限度があり、また教師自身のキャリア形成、専門スキルの習得ということを考えたとき、さまざまな学校に異動するということも、致し方ない部分もあるからだ。

ご両親は、特別支援学校が少人数制であるということにも問題を感じていた。少人数制であれば教師一人が生徒に対して手厚くケアできるというメリットがある一方で、集団の中で団体行動を学ぶ、さまざまな価値観を持った同級生と出会い、触発されるという機会が少なくなる。「私たちがいつも考えるのは、息子が社会に出て、きちんと仕事をして、給料をもらって生活をするのに困らないようにしてあげたいということです。それを考えたとき、大人数の学級の中で学校生活を送ることも必要なのではないかと考えました」。

 

 

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授業を受ける本山くん。UDトークが表示されるiPadを机の上に置いていくだけ。読話と板書を主体にし、読話がしづらい部分をUDトークで確認するという使い方だ。

 

 

人生は自分で選択してほしい

本山くんが小学校四年生になったとき、ご両親は中学校進学に関して真剣に考え出した。選択肢は3つあった。①公立の特別支援学校、②公立の普通学校、③私立の普通学校だ。まず、始めたのがさまざまな学校説明会、学校相談会などに本山くんと一緒に出席することだった。学校側の受け入れ体制の問題もあるし、ご両親としては最終的には本山くん自身に自分の進路を決めてほしかったからだ。

本山くんは幼いときに人工内耳の手術を受けている。まだ自分で判断ができる年齢ではなかったので、両親がその決断をしたが、そのことに今でも戸惑いがあるのだという。人工内耳が良かったか、悪かったかという結果論ではない。「息子の人生に大きく関わる決断を、幼かったとはいえ、親が勝手に決めて良かったのかという思いです。自分のことなのですから、できるだけ本人に選ばせたい」。そのために、中学校選びは時間をかけて行った。

「その中で、教育方針に共感できたのが本校でした」。本人が大学進学を考えているので、中高一貫校であること、また自宅から自転車で通えることなどから、駿台甲府中学校に的が絞られてきた。そして、ご両親はまず学校に受験可能かどうかを問い合わせた。学校側の回答は極めて明快だった。「受験で必要な学力があると認められるのであれば、その他の条件は一切問いません」。

手話だけでは難しい

その後の3年間、本山くんとご両親は、駿台甲府中学校の学校説明会に頻繁に出席した。手話通訳士に頼み、本山くんの横で説明内容を手話で通訳してもらった。学校側はその様子を見て、手話通訳士がつけば問題なく授業も受けられるという感触を持った。

しかし、手話通訳士をつけての授業は果たして正しい選択なのか。ご両親にも学校側にも戸惑いがあった。駿台甲府中学校では、以前難聴の生徒を卒業させた実績がある。しかし、その生徒の場合、両親の希望で手話ではなく、口話を中心にコミュニケーションしたいという希望があった。将来、誰とでもコミュニケーションが取れるようにしたかったからだ。そのため特別な支援は必要なく、ただ教師側、同級生が多少の気遣いをするだけでよかった。「でも、本山くんの場合は、口話だけというのは難しい。かといって、彼だけを特別扱いすることもしたくありませんでした」(駿台甲府中学校副校長・保坂明子氏)。

学校側で議論を重ねる中、1つのキーワードが出てきた。それは社会福祉用語の「ノーマライゼーション」という言葉で、「障がい者と健常者を区別するのではなく、共に社会生活を営むのが正常なことであり、望ましい姿だ」とする考え方のことだ。健常者と障がい者がともに学ぶことで、障がい者だけでなく、健常者にも大きな教育効果がある。互いに異なった価値観を持った生徒が触れ合うことが、子どもたちの大きな財産になる。この考え方に異論を唱える人はいないだろう。では、具体的にどうやってノーマライゼーションを実現すればいいだろうか。

手話通訳士をつける方法には問題が多かった。本山くんの隣に通訳が座り、教師の講義内容を手話で通訳をしていく。「でも、それは学級運営上問題があると感じました」(駿台甲府中学校教諭・中村圭世氏)。学園側あるいは両親が特定の手話通訳士をつけるというのは経済負担が大きい。ボランティア団体などが、無償で派遣してくれる制度もあるが、それだと毎回違った通訳士が教室の中に入ってくることになる。そうなると、セキュリティ上の問題も出てくるし、なにより、教室の中に教師と生徒以外の大人、しかも毎日違った人がいるということが、学級運営には大きな支障となるのだ。生徒たちが落ち着いて勉強をする環境が崩されてしまう。

中村教諭は、ご両親とも相談したうえ、現状のリソースの中で、できる範囲の対応をすることにした。まず、中学一年最初の学年集会で生徒全員に本山くんの事情を説明し、黒板に大きく「ノーマライゼーション」と書き、その言葉の意味を生徒に教えた。

また、授業は、教師側が工夫することから始めた。本山くんは読話ができるため、教師の唇の動きがはっきりと見える前の席に座ってもらう。生徒に背を向けて板書をしながら話をしてしまうと本山くんに唇の動きが見えなくなってしまうので、なるべく生徒側に向かって話をするようにする。

また、板書量を多くするという工夫も取り入れた。授業内容は必ず板書にまとめ、しかも図形やグラフ、箇条書きを多く取り入れ、板書だけでも授業の内容が理解できるように心がけた。さらに、本山くんのノートをたびたび見て授業内容がきちんと伝わっているかを確認するようにした。このような小さな工夫を積み重ねることで、中村教諭は本山くんが十分に普通学級の中でも勉強ができると実感したと語る。

読話と板書だけでは…

しかし、このように授業を進めていく中で、中村教諭はもう1つの大きな問題を感じ取った。それは、授業というものが、50分間すべてを緊張の時間で埋めることが難しい点にある。特に小中学生の場合、長時間の集中を強いると逆に集中力が途切れ、学習効果が落ちてくる。そのため、教師はあえて弛緩の時間を作っていく。たとえば、授業内容に関係のない雑談を入れたり、生徒が冗談めかした発言をしたのを咎めずに乗っていき、教室をわあっと沸かせたり…。そしてその後、再び集中させ、授業のリズムを作っていく。

「でも、そのときに、クラスの中で本山くんだけが下を向いていることに気がついたのです」。授業内容を伝えるということはほぼ解決できている。しかし、それまでの文脈や板書と関係がない雑談になると本山くんはついてこれないことがあることに中村教諭は気づいたのだ。また、生徒たちの自由気ままな発言は、唇を読むことができないので、誰が何を言っているのか捉えられない。そのため、弛緩の時間になると、本山くんは孤独になってしまうのだ。

授業内容は理解できているのだから問題ない。そういう考え方もあるかもしれない。しかし、中村教諭はそうは考えなかった。雑談も私語も授業のうちで、子どもたちはそういうところで人間関係を築いていく。中村教諭は、緊急に解決しなければならない大きな課題だと感じた。

両親と学校が連携して導入

その一方で、ご両親も動いていた。大がかりではなく、手軽に使える補助ツールはないか。そこで出会ったのがUDトークだった。

ご両親が感じられたUDトークの利用価値は2つある。その1つは、音声の認識速度が速く、会話とほとんどタイムラグなしに、iPadにテキストが表示される点だ。手話通訳の場合、会話と手話にどうしても数秒の時間差が生まれてしまう。1対1の会話、あるいは一方的な講演などの場合は大きな問題にはならないが、授業のようにやりとりがあり、転換がめまぐるしい状況では、利用者にとって大きな負担になる。数秒間ずれた2つの文脈を、思考を行き来させながら理解しなければならないからだ。精神的にとても疲れることだし、ついていけず混乱してしまうこともある。それがUDトークではタイムラグがほとんどないので、会話とテキストを同期させて一度に理解することができる。

もう1つは、会話の口語体がそのままテキスト化されることだ。手話、筆談は基本的に文語体だ。文章によってコミュニケーションをする。そのため、本山くんは文章に小さい頃から親しんでいて、自分で積極的に本を読み、学力も高い。しかし、一方で、ご両親は「生の会話」に触れる機会が少ないことを心配していた。会話の中に存在する文章としては不完全だが、ニュアンスや微妙な感情を読み取る能力も身につけてほしかった。「本当は、しゃべった内容が人の横に漫画の吹き出しみたいに見える機械があったらありがたいんですけど(笑)」。

これらの理由から、UDトークを使って授業を受けることは優れた選択のように思えた。しかし、ここで問題になったのはUDトークをインストールする端末(iPad)の購入費とUDトークの月額利用料1万6000円を誰が負担するかという問題だ。

ご両親は自分で負担をするつもりだった。しかし、学校側はそれに対して違和感を持った。授業に必要なものなのだから、学校側が備品として用意するのが筋なのではないかと。とはいえ、本山くん一人のために備品を購入するというのは公平性を欠くのではないかというジレンマもある。そこでまず学校は、開発元のシャムロック・レコードを招いてUDトークのプレゼンテーションを行ってもらった。すると、本山くんのためだけでなく、広く校務業務にも活用ができるという印象を持った。「生徒が手書きで書いた作文をテキスト化するときにも重宝しています」(中村教諭)。そのほか、会議の記録など、校務業務での利用も検討している。 「これであれば、学校の備品なのだから、学校が負担すべきという結論になりました」(事務長広報担当・渡辺和哉氏)。本山くんは自分のiPadを学校に持ってきて授業で使っているが、学校も校務用にiPadを1台購入し、UDトークの利用を契約した。

 

 

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UDトークを開発したシャムロックレコード代表の青木秀仁氏。本山くんとはすでに仲良しで、UDトークの改良点をいくつも指摘されていた。単に開発して配布するだけでなく、実際の利用者と対面して話を聞くことが、今後のUDトークにとってきわめて重要だという。

 

 

クラスの“空気”に参加できる

本山くんは中学一年生の12月から、UDトークを授業中に使っている。授業内容を理解するうえで補助になっているだけでなく、雑談も伝わる。UDトークのマイクは教師が胸から下げているので、生徒たちの声はほとんど拾えない。わずかに拾った音声を音声認識しようとするので、iPad上には意味不明のテキストが表示される。しかし、そのテキストを見て、本山くんは雑談が進行中だという「クラスの空気」を感じ取ることができる。また、認識された要所要所の単語を拾っていくことで、どのような話題の雑談が行われているのかもある程度推測ができるのだそうだ。「以前の本山くんは、雑談になると暗い表情になっていました。それが今はとても明るい。クラス全体の一体感を感じます」(中村教諭)。

UDトークを使ううえでの工夫もさらに積み重ねている。教師が生徒を指名して質問をするとき、教師は「○○くん、○○さん」とフルネームで指名する。UDトークには同級生の名前が単語登録されているので、フルネームにすることにより誤変換がなくなり、本山くんがどの生徒が当てられているのかがわかるようにだ。さらに、生徒が答えると、教師は「○○君は○○と答えました」と、生徒の答えを復唱する。これで生徒の答えが、UDトークで変換され、本山くんには授業の“流れ”がわかるようになる。

このような工夫が、本山くんだけでなく、クラス全体に良い影響を与えている。教師が板書をきちんと構成する、はっきりと話す、やりとりを復唱することで、授業そのものがわかりやすいものとなり、本山くん以外の生徒にも理解しやすい授業になっているのだ。「事実、本山くんがいるクラスは明らかに学力が上がっているんです」。

本山くん、同級生、駿台甲府中学校の教師、本山くんのご家族は、今日もノーマライゼーションに向けた小さな工夫を積み重ねている。それは、本山くん一人ではなく、関わった人全員に良い影響を与えている。ノーマライゼーションとは、誰もがともに生きられる社会を目指して、取り組みを続ける姿勢のことをいう。ノーマライゼーションに終わりはない。

 

 

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教師は、専用マイクを胸から下げている。教師の声を拾い、クラウド上の音声認識エンジンがテキスト化をし、iPadに表示する。表示するiPadは何台でもよく、本山くんの机の上と、教師自身の確認用に教壇にも置かれている。このiPad間では、筆談を送る機能もあり、本山くんが困ったときがあったときは、先生だけに筆談メッセージを送ることができる。

 

 

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社会の授業での実際の使用例。「保元、方言」「主役、試薬」など誤変換がいくつがあるが、誰もが文脈から誤変換であることがすぐにわかり、しかも正解が容易に推測がつく。

 

 

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理科の実演中で、教室が賑やかにり、生徒の声もマイクが拾ったために、誤変換が多くなったもの。誤変換が多くなることで、教室が沸いていることが本山くんにも理解できる。これがきわめて重要なことだった。しかも、単語を拾うことで、どのような話が進行中なのかは容易に推測がつく。

 

 

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(上から)駿台甲府中学校副校長・保坂明子氏、事務長広報担当・渡辺和哉氏、教諭・中村圭世氏。本山くん入学時には、正直さまざまな戸惑いもあったという。しかし、その課題を一つ一つ地道に解決することで、ノーマライゼーションを軌道に乗せた。

 

 

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本山くんを中心に両脇にご両親、左に中村教諭、右に青木代表。生徒、親、学校、開発者がともに協力し合い、ノーマライゼーションについて取り組む。ノーマライゼーションはハンディキャップをある人を支えるという一方向のものではなく、参加する人全員に良い影響を与え合う試みだ。



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