教育・医療・Biz iOS導入事例

1万人の臨床データをすぐに集めた慶應の「Reserchkit」アプリ

文●木村菱治

iPhoneで医療データを取得し、大学や病院などで活用するための「リサーチキット」。アップルが公開したこのフレームワークを活用し、国内初の臨床研究を始めたのが慶應大学医学部だ。アプリ公開後短期間で1万人のユーザを獲得し、日本における新しい医療研究の道を拓いた。

臨床研究の新しい手段

慶應義塾大学医学部(以下、慶應大学医学部)が2015年11月にリリースした「ハート&ブレイン(Heart & Brain)」は、不整脈と脳梗塞の早期発見を目的とした臨床研究用iOSアプリだ。ユーザはアプリ内で行われる簡単な検査とアンケートに答える形で、研究に協力することができる。

アプリは無料で、日本在住の成人なら誰でも研究に参加できる。ユーザがアプリ上で自身の健康状態や生活の質に関する質問に答え、センサを利用した運動テストを行うと、その結果が慶應大学医学部のサーバに送信される。このとき、iPhone、アップルウォッチに蓄積されている歩数や心拍数などのデータも一緒に送られる。

不整脈や、それを原因として起きる脳梗塞の治療には早期診断による発見がとても重要だが、診断しても症状が見つからず、突然脳梗塞で倒れてしまうケースも多い。iPhoneやアップルウォッチが日々収集しているデータが、これらの無症状の不整脈・脳梗塞の発見に役立つかを検討するのが、この研究の狙いの1つだ。

ユーザの測定結果に対して診断やアドバイスが送られるわけではなく、あくまでも研究のためにユーザのデータを収集するアンケートのようなアプリだが、リリース後のダウンロード数は数万件に達しているという。

ハート&ブレインを開発した慶應義塾大学病院循環器内科特任助教の木村雄弘氏は、iOSアプリを使った臨床研究について、次のように語る。

「臨床研究で一番難しいのが症例の数を集めることです。研究に協力してくれる方の数が多いほど、そこから得られる医学的根拠(エビデンス)の質は上がります。しかし、従来の手法では、多くの人の情報を集めるためにはそれだけ手間とコストがかかりました。iPhoneには、世界中に億単位のユーザがいます。その人たちがいつでも誰でも臨床研究に協力できるというのは、画期的なことだと思います」

通常の臨床研究では、まず協力者を探し、病院に来てもらい、対面で研究の内容を説明し、承諾を取ったうえで問診や検査を行う。当然、かかるコストや時間は協力者の数に比例するため、大規模な調査ができる研究機関は限られる。医師や協力者の負担も大きい。一方、アプリを使った臨床研究なら、日本はもちろん、世界中の人を対象に、より多くのデータを収集できる可能性がある。しかも、件数が増えてもコストはほとんど変わらない。iPhoneやアップルウォッチを使った調査は、今まで収集することが難しかったデータを得られる新しい手段として期待されている。

 

 

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東京・信濃町にある慶應義塾大学病院。同大学医学部の隣に立地している。

 

 

 

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ハート&ブレインの開発者である慶應義塾大学病院循環器内科、木村雄弘特任助教。内視鏡やカテーテルの開発にも携わっている。

 

 

リサーチキットの可能性

ハート&ブレインは、日本で初めて「リサーチキット」を使って作られた臨床研究用アプリだ。リサーチキットはアップルの提供する医療情報管理用のフレームワーク(アプリの開発時に使われる機能や、プログラムがまとめられたテンプレート)であり、研究者が効率的にアプリを作成するための手助けになる。

「昨年の3月にリサーチキットが発表されたニュースをたまたま目にし、さらにそれを使ったスタンフォード大学のアプリが大量にダウンロードされたと聞いて、これはすごいな、と思ったのが開発のきっかけです」と木村医師。もともとプログラミング経験があったという木村医師はさっそくリサーチキットをダウンロードし、自らアプリ開発に取り組んだ。リサーチキットには臨床研究用アプリ開発に適したモジュールが揃っているので、開発も楽だったという。

「リサーチキットは、質問表やアンケートのコーディングをものすごく楽にしてくれるフレームワークだと思います。選択肢やスライドバーを使った質問も非常に簡単に作ることができました」

また、医学研究用フレームワークならではの機能としては「コンセント(同意)モジュール」がある。これは、ユーザに研究の趣旨などを説明したうえで同意を得る機能だ。ハート&ブレインでは、説明を読んだあとで、研究に同意するユーザは画面上に手書きでサインをする。

「コンセントは臨床研究には必須の機能です。従来形の臨床研究でも協力者の同意書は絶対に必要で、それがアプリの画面の中でできるのはすごいですし、実装もとても簡単でした」

ちなみに、患者の匿名性を確保するのは臨床研究の基本であり、ハート&ブレインも、あらかじめ研究の目的や方法などの妥当性を慶應大学の倫理委員会で審査されたうえで、開発・公開されている。

 

 

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アップルのリサーチキットのWEBサイト。リサーチキットの解説を閲覧できる。
【URL】http://researchkit.org/index.html

 

 

 

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起動すると研究の詳細や収集するデータの内容、プライバシー保護の取り組みなどについて、テキストで詳しい説明が表示される。研究の内容に同意したユーザは、いくつかのアンケートに答えていく。

 

 

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Heart & Brain

【開発】Keio Univ.
【価格】無料
【カテゴリ】App Store>メディカル

 

 

 

センサの新たな活用法

ハート&ブレインの収集するデータには、iPhoneを持って手首を回す、手を前方に突き出した状態で目を閉じる、カメラに向かって表情を作るといった運動機能の検査結果が含まれている。こうしたセンサを使ったデータ収集ができるのはiPhoneならではだ。この運動機能検査も、木村医師が独自にプログラムしたそうだ。

「リサーチキットはオープンソースで、現在は研究者が自分で作ったアクティブタスクが数多く公開されていますが、開発当時は十分なタスクとモジュールがありませんでした。そのため自分でプログラムを書きましたが、リサーチキットは拡張され続けているので、これから開発する人はもっと楽にさまざまな機能を実装できると思います」

また、皆が共通のフレームワークを使って開発することで、アプリ間でインターフェイスの統一性が保たれることもメリットだという。さらに今後、研究者間でプログラムやノウハウの共有が進むと開発がより容易になるほか、たとえば、共通の測定モジュールを複数の研究で使うことで、収集データの共有がしやすくなることも期待できる。

ハート&ブレインは、参加者に「日本在住の成人」以外の制限を設けていない。

「いろいろとやりたいことはありましたが、今回はとにかく取得する情報の量を優先しました」と木村医師。アプリを公開する前には1万件程度のデータが集まればよいと考えていたそうだが、実際にアップストアに公開してみるとごく短期間で達成することができた。この結果には木村医師自身とても驚いたそうだ。

また、ハート&ブレインは、アプリを使った臨床研究の有効性自体を検証するという役割も担っている。

「収集されるデータには、『iPhoneユーザで、かつアプリをダウンロードしてくれる人』というバイアスがかかっていることは承知しています。アプリを使って収集したデータの『質』を分析するのも、今回の研究目的のひとつです」

これまでのデータの分析結果は、近々国際学会で発表する予定だという。

「今後は、研究対象者を特定の病気を持っている人に限定するなど、条件を絞っていくことになると思います。また、より客観的で質の高いデータを得るためにはセンサの機能がもっと充実する必要があります。」センサに関しては、近年急速に発達しているウェアラブル機器の活用も考えているとのこと。

ハート&ブレインを使うと、一般の人が手軽に医療の進歩に貢献でき、臨床研究とはどんなものかを知ることもできる。興味を持たれた方は、一度試してみてはいかがだろうか。

 

 

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「運動麻痺評価」ではiPhoneのジャイロセンサを利用して、目を閉じたときの手の動きを測定する。また、「協調運動評価」では左右の手でiPhoneを振り、加速度センサを使って手首を回す周期を測定する。

 

 

 

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すべての測定が終了すると、[データ]タブで検査の解説と、自分の測定データを確認できる。

 

 

【臨床研究】
病気の原因の解明や予防、治療の改善などの目的で、患者の協力のもとに行われる医学研究の総称を臨床研究という。患者がアンケートに答えたり、データを提供する形で協力するものを「観察研究」、新しい薬や医療機器の効果などを実際に検証するものは「臨床試験」や「治験」と呼ばれる。

 

【不整脈】
心臓の拍動が乱れている状態のことを不整脈という。多くの種類があり、原因や症状もさまざまだ。たとえば、「心房細動」と呼ばれる不整脈は、心房全体が小刻みに震え、正しい収縮と拡張ができなくなる。これにより、血液の流れが悪くなり、固まった血液が脳の血管に詰まって脳梗塞を起こしたりする。

 

 

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