教育・医療・Biz iOS導入事例

 

失ったコミュニケーションをiPhoneで取り戻す

文●木村菱治

メールやメッセージは、人と人とを結ぶ重要なコミュニケーションツールだ。しかし、もし何らかの原因で文字の読み書きができなくなったらどうなるのだろうか? 今回は、失語症を発症しながらも、見事にiPhoneを使いこなしている女性の事例を取り上げる。

Siriと指伝話を巧みに操る

大野京子さんは、iPhoneが大好き。家にいても外出時でもiPhoneが手放せないという。毎日、友人とのメッセージのやりとりを楽しんでいるほか、スケジュール管理などにも使っている。すらすらとiPhoneを操る大野さんだが、実は画面に表示される文字のほとんどが理解できない。彼女は昨年、突然の脳出血に見舞われ、失語症を発症したのだ。

失語症は、脳出血や脳梗塞、事故などで脳の言語野と呼ばれる部位が損傷することで起こる。症状としては、言葉を話すことだけでなく、言葉を聞いて理解すること、文字を読み書きすること、計算することといった、言語に関わるすべての能力の低下などが挙げられる。どの能力にどの程度の障がいが現れるかは、損傷を受けた部位によって変わるため、人によって症状は千差万別だ。自分の名前がいえなくなったり、意味をなさない言葉を話したりすることもあるため、認知症や記憶障がいなどと混同されやすいが、基本的に記憶や思考力は発症以前と変わらない。

言語聴覚士(ST)として大野さんのリハビリに関わる、北里大学・東川麻里准教授は、「失語症は、認知症のような知的障がいとは異なります。記憶や思考に問題はなくても、思ったことを言葉にしたり、知っているはずの文字を理解することができなくなるのです」と語る。例えるならば、「言語を知らない外国を旅行しているような状態」だという。大野さんの場合は、文字の読み書きが困難なほか、物の名前の想起を苦手としている。その一方で、話すことや、主語と述語を組み立てる構文能力は保たれており、リハビリの成果もあって今では本記事のインタビューを受けられるほどになった。

 

 

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北里大学医療衛生学部リハビリテーション学科言語聴覚療法学専攻・東川麻里准教授。

 

そんな大野さんがメッセージを送るときに活用しているのが、iOSの音声認識機能Siriと、オフィス結アジアが開発したアプリ「指伝話」である。このアプリに付いている文章の読み上げ機能が、彼女を大きくアシストしてくれるのだという。

まず指伝話の入力画面を表示し、Siriを使って声で文章を入力する。ただし、テキストに変換された文章を見ても大野さんは理解できない。そこで、指伝話の読み上げ機能を使って内容を音声で確認するのだ。問題がなければ、コピー&ペーストでメッセージアプリに貼り付けて送信するという仕組みである。相手から届いたメッセージに対しては、文章をコピーして指伝話の入力画面にペースト、そして音声で確認する。その操作はとてもスムースだ。「返信が早く、文章も自然なので、私もつい大野さんが失語症であることを忘れてしまいます」と、東川氏も驚くほど。

iOSには標準で、ボイスオーバー(VoiceOver)という読み上げ機能が搭載されているが、機械的で不自然な音声になってしまうため、失語症の人にとっては聞きづらいそうだ。これに対し指伝話の音声合成エンジンは、iOSのものよりも遙かにクリアで自然な発声ができる。

 

 

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オフィス結アジアの高橋宜盟社長。

 

 

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指伝話は、指伝話2ME(別売)を介してiPhoneにつなぐと、相手の話に応じて、対応するフレーズをタップするだけで音声応答できる。風邪を引いたときに代わりに話してもらったり、長い小説の文章をペーストして読み上げてもらうといった使い方もできる。

 

 

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指伝話

【作者】Office Yui Asia Limited
【価格】3600円
【カテゴリ】App Store>ユーティリティ

 

 

【ST】
言語聴覚士(Speech-Language Hearing Therapist)は失語症のほか、聴覚障がい、言葉の発達の遅れ、声や発声の障がい、摂食・嚥下障がいなどに対し、訓練や検査、助言、指導などを行う国家資格。平成26年現在、有資格者数は2万3773名だ。

 

iPhoneを使いたかった

今でこそiPhoneを使いこなしている大野さんだが、失語症になった直後は、家族を含め周囲の人から、以前のようにiPhoneを扱えるとは思われていなかった。なぜなら、失語症の人の多くはパソコンの操作がほとんどできなくなってしまうからだ。また、大野さんは話す能力が完全に失われたわけではなかったものの、入院当初は自分の名前すら言葉にできない状態だったため、電話をかけるのも難しかった。友人や同僚と気軽に連絡を取ることができず、数カ月間、病院の外の世界とは隔絶された状態に近かったという。

そんな大野さんの状況を大きく変えたのが、東川氏がリハビリ用に持参したiPadだ。失語症のリハビリには、カードに描かれた絵を見て物の名前を答えたり、逆に物の名前を聞いて絵を当てるという訓練がある。その訓練は紙のカードを使うのが一般的だが、東川氏は、テスト中のアプリ「指伝話メモリ」を入れたiPadを使っていた。指伝話メモリとは、絵と音を組み合わせたコンテンツを簡単に作成できるアプリで、これまで紙のカードを使っていた訓練をiPad上で行えるように作られている。STにとっては、重たい紙のカードを大量に持ち歩かなくても済む。

東川氏のiPadを目にした大野さんは目を輝かせて、「私も同じの(iPhone)を持っているんです」といったという。もともと、大野さんは新機種が出るとすぐに替えたくなるほどの新し物好き。iPadを使った〝かっこいい〟リハビリは、彼女の好奇心を強く刺激した。

それを受け、大野さんなら使えるだろうと判断した東川氏の提案で、自宅に保管されていた愛用のiPhoneが病室に届けられた。大野さんは「使いこなせるとは思っていませんでした。ただ単純にかっこいいと思ったんです」と話す。

驚いたことに、実際に手にしてみると、iPhoneの操作を体が覚えていた。

「一番うれしかったのは、連絡先の友人の名前を見て、文字は読めなくても、それが誰を指しているのかを理解できたことです。これなら、もしかしたら使えるかもしれないと思いました」

しかし、文字を入力する方法は知っていても、書きたい内容を文章にすることができない。彼女が友人に送った最初のメッセージは「や」「に」という文字だった。その友人からの返事はすぐに届いたが、大野さんはその文面を理解できない。今度は「私は元気よ。頑張ってるよ」という思いを込めた絵文字を送った。友人からのメッセージに入っていた絵文字の意味は理解できたのだ。すると状況を察した相手もまた絵文字で返してくれた。こうして大野さんは、外の世界と直接つながる方法を、自分の力で切り開くことができた。

 

 

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大野さんが入院後に初めて送ったメッセージ。最初は一文字だけ、やがて絵文字のやりとりに変わっている。

 

とはいえ、絵文字だけのやりとりには限界がある。大野さんがもっと自由に意思を伝えられる方法はないか、という東川氏の相談を受けたオフィス結アジアの高橋宜盟社長が提案したのが、Siriと指伝話の組み合わせだった。

「先生がお部屋に来て、『大野さん、メールができるわよ!』と教えてくれたのを覚えています。大野さんなら絶対できるといってくれたのがとてもうれしかったです」

こうして使い始めた頃は、食事の時間も惜しんでiPhoneの操作に夢中になったそうだ。

退院後も大野さんはリハビリを続け、1人で外出できるほどにまで回復している。もちろん外出時にはiPhoneを携えていく。指伝話には、大野さん専用の定型文が登録してあり、必要なときにはiPhoneが伝えたいことを代弁してくれる。1人での外出はとても不安だが、iPhoneがあることでずいぶん心強いという。

 

 

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取材直後に大野さんが送ったメッセージ(下の文章)。文章だけを見ていたら、とても失語症を発症しているとは思えない。

 

大事なのは万人向けであること

大野さんをお見舞いに来た友人の多くは、そのメッセージの送り方はもちろんだが、まずiPhoneを使っていることに驚くという。「みんなは、まだこれ(スマートフォン)じゃないんですよ」と大野さんは誇らしげ。障がい者専用の道具ではなく、iPhoneを使うことでよりポジティブな気持ちになれるようだ。

また、活用している指伝話も障がい者専用のアプリではないことを忘れてはならない。そもそもこのアプリは、電車に乗っているときでも電話に出られるようにと開発されたものだ。それが喉の病気で声を失った医師の目に留まったことをきっかけに、障がい者の音声サポートツールとしても使われ始めた。今は、開発に言語聴覚士の意見も反映されているが、基本はあくまで万人向けに作っていると高橋氏は話す。

「障がい者専用に作ると、市場規模の面から、アプリの価格を高く設定せざるを得ません。また、そもそも障がいを持った方に使いやすいアプリは、誰にとっても使いやすいものになるのです」

今回のケースでは、患者さんの症状をよく知っている言語聴覚士と、プロのエンジニアが持つITの知識がうまくかみ合ったと東川氏。

「障がいは人によって異なりますが、それぞれの人にピンポイントで役立つツールが必ずあるはずです。それを探すためには、医療のプロとITのプロがお互いに協力しあうことが必要です」

 

 

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指伝話の編集画面でSiriを使って文章を入力しているところ。Siriはまだ誤認識が多いとのことで、今後の改良が期待される。

 

 

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大野京子さん(手前左)と、彼女が現在リハビリを行う永生クリニックの言語聴覚士・邨松美都樹さん(手前右)、永生病院・法人本部リハビリ統括管理部部長・渡邉要一さん(奥左)を加えた集合写真。

 

【失語症】
失語症には、陰性症状と陽性症状がある。前者は言葉が出てこなくなるような症状で、後者は思ったこととまるで違うことをいってしまう症状だ。そのほか、単語は出てきても文法的に正しい文を作れない文法障がいなど、人によってさまざまな症状が現れる。

 

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