第30話 AIが描いた絵画に はしゃぐ人々の狂騒曲|MacFan

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デジタル迷宮で迷子になりまして

第30話 AIが描いた絵画に はしゃぐ人々の狂騒曲

文●矢野裕彦(TEXTEDIT)

テクノロジーの普遍的ムダ話

AI(人工知能)が描いた絵が話題になっている。文章で場面を入力したり、サンプルとなる絵柄を読み込ませたりすると、オリジナルの絵に仕上げてくれる。まるで人が描いたようなオリジナルの絵が世界中でどんどん出力されている状況だ。AIの描く絵といえば、以前は違和感があるものが多かったが、「人が描いたような絵に見える」という意味で目的に近づいたと言える。

作品のデキは偶発性に寄っている感は否めないが、思いがけない美しい色使いや緻密な描画に、多くの人が感動しているようだ。

しかしその感動は、人が描いた作品から得る感動とは種類が異なる。才能や努力から生まれた作品の素晴らしさに対する感動ではなく、人が描いたような絵を出力した技術に対する感動だ。しかし、この点がごちゃまぜのまま語られているような印象を受ける。

さまざまなジャンルにおいて、「人のまねをする」技術は永遠のテーマでもある。その結果、絵に関してはどこかで見たことがあるような絵柄がほとんどだ。

アートは、テクノロジーによって変化する側面はある。画材や素材などの道具の進化もあるし、デジタル技術の影響もかなり受ける。その恩恵として、テクニックをカバーしてもらえることも多い。きれいな曲線が描けない人でも描けるし、それを手描きのように見せるツールも一般的で、プロでも使っている。

では、従来の手法が不要になっていくのかというと、相対的に手描きの技術の希少性が高まり、価値が上がる可能性はある。しかし、評価はともかく、この先それに見合う対価が得られるのかは疑問だ。

学習データを利用したAIの場合、開発の過程で既存の作品を大量に利用している。そこには人が描いた絵画も数え切れないほど含まれているだろう。そこから出力される画像が、“それっぽい絵”になるのは、過程はさておき結果としては当然だ。

ただし、人が描く場合も似たプロセスは発生する。他人の絵や写真、画風などからインスピレーションを得るのはよくあることだ。AIとの大きな違いは、人の心が介在していることだろう。たとえば、さまざまな人と関係しながら生活し、絵画や写真に感動し、それに触発されて自発的に絵画を描き始め、練習して技術を身につけ、工夫し、社会の変化や時代の流れを体感し、出会いや別れを経験し、自分の作品と向き合いながら次の作品を生み出すといった点が異なる。作品に人生が反映されるという、アートの根源的な話だ。

こうして生まれた人間の作品を糧として、AIは育つ。この場合、AIの学習データや出力のトリガーとなった既存の作品とは何なのだろうか。AIで絵を出力する作業に、いわば素材と成り果てた作品とそれを描いた作家に対するリスペクトがあるとは思えない。そもそもAIを使った作画は数百枚出力してそこからデキのいいものを選ぶという、どちらかといえば「数打ちゃ当たる」という手合いで、従来の絵を描く作業とはまったく異質のものだ。

そして、見る側は基本的に無責任だ。作品に対して積極的に理解を深めようとする人は、タイムパフォーマンスを求める現代においては希少な存在だろう。作品に込められた意味や意思、絵画でいえばそれこそが絵心だと思うが、そこにたどり着けない作品のほうが圧倒的に多い。

AIが描いた作品が米国の美術品評会で1位となったが、このニュースは状況を複雑にしている。このコンペのレギュレーションは知らないが、少なくとも受賞の判断をするのは(今のところ)人間なのだ。

 

 

写真と文:矢野裕彦(TEXTEDIT)

編集者。株式会社TEXTEDIT代表取締役。株式会社アスキー(当時)にて月刊誌『MACPOWER』の鬼デスクを務め、その後、ライフスタイル、ビジネス、ホビーなど、多様な雑誌の編集者を経て独立。書籍、雑誌、WEB、イベント、企業のプロジェクトなど、たいがい何でも編集する。