第17話 テクノロジーが消し去る「トイレを流す」という行為|MacFan

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第17話 テクノロジーが消し去る「トイレを流す」という行為

文●矢野裕彦(TEXTEDIT)

テクノロジーの普遍的ムダ話

ずいぶん前の話になるが、家のシャワートイレが古くなったので付け替えた。業者に発注すると高額なので、個人売買で入手してDIYで設置した。割安だったので上位モデルを選んだところ、シャワーの種類やら乾燥やらさまざまな機能が備わっていた。

しかし、実用的なのは結局、便器のフタの自動開閉機能だったりする。要するに人を検知してフタが開き、人がいなくなると自動的にフタが閉じる単純な機構だ。

それに似たもので、使用後に自動的に水を流す機能も備わっている。同じく便利なものに思えるかもしれないが、ほどなく、この機能には問題があることに気がついた。

しばらく使用していたのだが、壁のスイッチを押せばいつでも流せるのだから、自動で流れるのを待つのは無駄だと思ってオフにした。そこで問題が発生した。当時、まだ保育園に通っていた娘が、使用後にトイレを流さないのだ。

いくら何でも流し忘れるわけがないと思うかもしれない。しかし、それはこれまでの人生において何万回とレバーで水を流してきた世代の言い分だ。自分たちには単なる付加機能であっても、小さな子どもにとっては「トイレを流す」という重要な行為を生活から消し去る機能だ。自動で流れるトイレは世の中には少ないので、よそでも流さない可能性がある。トイレのフタを閉め忘れたとしても大きな問題にはならないが、流し忘れは大問題だ。そんなわけで、慌てて娘を指導し直し、自動水洗機能は封印することになった。

この「トイレのフタの開閉」と「トイレの水を流す」という行為の違いは、テクノロジーの利用方法の重要な分水嶺を示しているように思う。そして、その価値の判断には、世代的な違いも投影されやすい。

たとえば、文字入力機能にも現れている。20世紀生まれの世代は、学校ではもちろん、生活の中でも文字を手書きするという行為を日常的に行ってきた。一方で、今のデジタルネイティブ世代は、物心ついたときから家庭にはキーボードがあり、スマホがある。教育の電子化も謳われる昨今、おそらくは学校でもキーボードの比重は高まっていく。

アルファベットを使う言語であれば、それでも大きな問題は起きないかもしれない。しかし、日本語では漢字を使う。文字の手書きに慣れ親しんできた我々でも、キーボード入力がメインになった今、手書きの場面では漢字が出てきづらいことがある。未来のデジタルネイティブにとって漢字は、スマホやPCで変換すると出てくる記号でしかないかもしれない。私たちが考える漢字とは異なる存在だ。読むことはできても書くことができなくなる可能性もある。

文字変換という機能が、漢字の使用を容易にしている半面、漢字を理解して使いこなすという学習を消し去っている。実際、見た目で漢字を選んだ結果、WEB上のテキストは取り返しのつかないレベルで誤変換にあふれている。こうなっては日本語文化の危機だ。

言語などの文化は、テクノロジーの進化とともに変遷するものとも言える。しかし、一部のテクノロジーやサービスは、見た目ばかりの機能を盛りだくさんにしてセールスポイントを増やし、ユーザを集めたいがために、そこで失われるものを見ないようにしているようにも感じる。

昨年、文章を自動的に生成する言語AI「GTP−3」が話題となった。まだ実用的とは言えないレベルだが、精度が上がれば、人の代わりに文章を創作し始めることになるだろう。文字入力どころの話ではない。そんなとき人は、何がトイレのフタで、何が水を流す行為なのか見極められるのか、現状を見ていると心配になるのだ。

 

 

写真と文:矢野裕彦(TEXTEDIT)

編集者。株式会社TEXTEDIT代表取締役。株式会社アスキー(当時)にて月刊誌『MACPOWER』の鬼デスクを務め、その後、ライフスタイル、ビジネス、ホビーなど、多様な雑誌の編集者を経て独立。書籍、雑誌、WEB、イベント、企業のプロジェクトなど、たいがい何でも編集する。