アラカルト デジタル迷宮で迷子になりまして

テクノロジーの普遍的ムダ話

デジタル迷宮で迷子になりまして 第11話

文●矢野裕彦(TEXTEDIT)

トラックボールが育むデジタルな呪縛

実は“トラックボーラー”だ。自慢ではないがトラックボールで絵が描けるレベルで使いこなしている。トラックボールの操作はコツが必要だ。以前「マウスをひっくり返しただけだし簡単だよね」などと言われたことがあるが、それほど単純ではない。ではなぜ使うことになったのか、もちろん理由がある。

だいぶ前の話になるが、はじめて勤めた出版社はデスクが狭かった。その頃の編集者の主力ツールはまだワープロ専用機で、何ならそれすらも必要なかった。想像できない人もいると思うので説明しておくが、そもそもテキストはデータで印刷所に渡すものではなかった。プリントアウトした原稿を封筒に入れて版下屋さんに入稿し、そこでオペレーターが入力していたのだ。ライターの原稿はファクスで届いて、それに赤ペンで修正や指示を入れて入稿することも多かった。まだ「社員にパソコンを支給する」などという世界ではなかったので、自分で執筆する原稿は個人所有のワープロ専用機で書いていた。プリンタを搭載していたワープロ専用機は、入稿用の原稿作成ツールとして最適だったのだ。

だが、そんなワープロ専用機全盛の時代に私は、PowerBook 2400cというマイナーなパソコンを持ち込んで仕事をしていた。狭いデスクに小型の2400cはピッタリだと思うかもしれないが、そうでもなかった。ワープロ専用機はたしかに巨大だったが、キー操作のみだったので、設置してしまえば何とかなる。対して2400cは設置面積こそ小さかったが、当時のトラックパッドは微妙で、操作はマウスのほうが圧倒的に便利だった。しかし、マウスの操作には場所が必要だ。当時の私のデスクは資料だらけで、マウスを動かす距離が足りずに置き直したりと、どうにもスマートに操作できない状況だった。

毎日パソコンを持ってきて、勝手にケーブルを引き回し、導入されたものの誰も使わない社内で唯一の高価なレーザープリンタを無理やり使っていた。そこまでやっておいて、使い勝手が悪そうな様を同僚に見せるわけにはいかない。思案した挙げ句、設置場所から移動する必要のないトラックボールを導入したというわけだ。

前置きが長くなったが、そのまま今に至るまで、トラックボールを使っている。今さらマウスを使おうとも思わない。ちなみに、家族のマシンをマウスで操作することもあるが違和感なく使えるし、トラックパッドの操作も問題ない。マウスやトラックパッドは、おそらく多くの人にとって直感的な操作が可能なデバイスなのだろう。アップルが当初から選ぶだけある。

そして今はタッチ操作の時代だ。アップルの現行トラックパッドは見た目もスマートだし、多機能で、機構的にもいかにもデジタルだ。ところがトラックボールときたら、ボールの部分がめちゃくちゃアナログっぽい。センサに読み取らせてはいるが、ボールをゴロゴロ動かすし、ときどきセンサのゴミ掃除も必要だ。こんなデバイスを、あのアップルが認めるはずがない。実際トラックボールに関するオフィシャルな表記は、アップルのサイト内に存在しない。トラックパッド全盛の今、トラックボーラーはとんでもなくマイノリティで、相対的に減っていくだろう。Macで動かなくなったらどうしようと、不安になることもある。

パソコン歴も長くなると、こういった過去の選択による呪縛に、時として苦しめられる。あの日トラックボールを選択したがために、アップルにずっと首根っこを押さえられている気分だ。でも、きっとドライバくらいは誰かが作り続けてくれるに違いない。しょせんトラックボールなんて、マウスをひっくり返しただけなのだ。

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写真と文:矢野裕彦(TEXTEDIT)

編集者。株式会社TEXTEDIT代表取締役。株式会社アスキー(当時)にて月刊誌『MACPOWER』の鬼デスクを務め、その後、ライフスタイル、ビジネス、ホビーなど、多様な雑誌の編集者を経て独立。書籍、雑誌、WEB、イベント、企業のプロジェクトなど、たいがい何でも編集する。



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