「日本の医療はデジタル化できる」-ある製薬企業が信じる理由|MacFan

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「日本の医療はデジタル化できる」-ある製薬企業が信じる理由

文●朽木誠一郎

Apple的目線で読み解く。医療の現場におけるアップル製品の導入事例をレポート。

これまで幾多の挑戦がなされるも、「絵に描いた餅」だった日本の医療のデジタル化。そこにエポックがもたらされた。武田薬品工業が主導する「神奈川県共同プロジェクト」で、オンライン診察から処方薬の個別配送までが実現したのだ。国内で長らく遅れてきた医療へのICT導入のきっかけとなる今回のプロジェクトについて、同社担当者を取材した。

 

 

神奈川で実現した「エポック」

身に付けたデバイスで患者のデータを収集してアプリに共有。問診やAI(人工知能)による症状の予測を行い、患者や医師にフィードバックする。これらのデータを用いて効率的に医師によるオンライン診療を実施。処方された薬の説明や服薬指導もオンライン化され、患者宅に薬が個別配送される。取得したデータは適切に企業やアカデミアと共有され、創薬や食品・保険分野の新規事業創出に貢献。また、これらの医療ビッグデータは「オーダーメイド医療」「病状の推移の予測」など質の高いヘルスケアサービスの基盤となる——。

これが次世代ヘルスケアシステム「ケア・フォー・ワン(CARE FOR ONE)」の概要だ。壮大な構想を描くのは武田薬品工業株式会社。机上の空論ではなく「デジタルトランスフォーメーションは実現できる」と同社のエンタープライズ・デジタル・ジャパンヘッドの大塚勝氏は言う。その証左となるのは、このケア・フォー・ワン構想の一部、薬の個別配送までがすでに現実になっていることだ。

長らく遅れてきた日本の医療のデジタル化。そのエポックとなる臨床研究を含む一連の「神奈川県共同プロジェクト」、および同社のデジタルヘルス領域の取り組みについて、大塚氏やインサイト、プランニング&ディべロップメント部パイプラインストラテジーグループ課長代理・小野寺玲子氏、コミュニケーション部社内外コミュニケーション グループマネジャー・金生竜明氏に話を聞いた。

 

武田薬品工業株式会社は、売上高国内トップ、世界有数の製薬企業。1781年に創業、現在では世界約80カ所を越える国と地域に拠点を有し、約5万人の従業員が働く。主に扱うのは消化器系疾患やがん、希少疾患の治療薬などの医療用医薬品。A https://www.takeda.com/ja-jp/

 

 

武田薬品工業のグローバルIT、エンタープライズ・デジタル・ジャパンヘッドの大塚勝氏。

 

 

武田薬品工業のインサイト、プランニング&ディべロップメント部 パイプラインストラテジー グループ 課長代理を務める小野寺玲子氏。

 

 

武田薬品工業のコミュニケーション部 社内外コミュニケーション グループマネジャーを務める金生竜明氏。

 

 

パーキンソン病の課題を解決

神奈川県共同プロジェクトでは、パーキンソン病患者を対象に、デバイスモニタリングやオンライン診療を提供する。ケア・フォー・ワン構想のファーストステップとも言えるこの医療サービスは、パーキンソン病の課題解決を目標にしたものだ。

パーキンソン病は神経伝達物質の一つであるドパミンが減少し、脳からの情報の伝達が滞り、動作や運動に障害が生じる病気。加齢が大きな危険因子で、国内を含め患者数は高齢化とともに増加傾向にある(ごく一部は遺伝性で、これは若年でも発生する)。同社はこの病気の治療薬を製造する代表的な製薬企業の一つだ。

このように動作や運動の障害が主な症状になるため、患者は病院に通うことが困難であり、身体的・経済的な負担が発生する。介助者も必要となり、その負担も看過できない。だからこそ、オンライン診療がその効果を発揮する。

また、この病気では振戦(手や足、あごなどのふるえ)や、動作が遅くなったり少なくなったりする状態、そして体のバランスが取りにくく転びやすくなる障害が起きる。加えて、パーキンソン病が進行すると、薬が効く時間が短くなり症状が現れるウェアリング・オフ現象や、薬の濃度が高くなりすぎると、意思に反して手足などが勝手に動くジスキネジアが生じる。このように、多様かつ変動する症状を正確に把握するためには、ウェアラブルデバイスによるモニタリングが最適だ。

そのために活用されるのは、前号でも紹介した「ヤードック(YaDoc)」と「モニパド」。ヤードックはオンラインで問診や診察を実施、それを通常の対面診療に組み合わせることで、医療の質を上げるプラットフォーム。医療ベンチャーの株式会社インテグリティ・ヘルスケアが提供する。モニパドは武田薬品工業とインテグリティ・ヘルスケアが共同で開発する、パーキンソン病の患者を対象にしたシステム。ヤードックをベースにさらにパーキンソン病に最適化したもので、アップルウォッチアプリとiOSの症状管理アプリによる在宅モニタリング、オンライン診療・服薬指導などを組み合わせている。事前の問診は、便秘や睡眠障害など、パーキンソン病のそのほかの症状も詳細に把握できるように設定されている。

アップルウォッチには「ムーブメント・ディスオーダーAPI(Movement Disorder API)」という加速度センサを用いた細かい震えを計測できる機能があり、これにより振戦やジスキネジアを感知することができる。大塚氏は以前からパーキンソン病の課題へのソリューションを模索しており、このAPIがなければ「自分たちで作ろうと思っていた」そうだ。

「モニパドで症状が発生する時間帯や頻度、その程度を計測できれば、医師にとっては投薬のタイミングや量の参考になります」と小野寺氏はモニパドの意義を説明する。従来の診察はたとえば1カ月ごとで、これでは詳細に把握できないデータが、アップルウォッチがあれば簡単に取得できるのだ。このデータは医療の質の向上により、患者に還元される。

臨床研究では病気の予防に積極的に取り組む神奈川県と連係し、患者30人が参加。それぞれ県内3カ所の医療機関と調剤薬局が協力する。ヤードックとモニパドを導入し、デバイスモニタリングとオンライン診療や服薬指導を提供。物流センターとも連係し、医薬品が配送で届くシステムになっている。7月から2021年4月まで実施する計画だ。

 

ニーズがあることをする

ケア・フォー・ワンは現時点では、直接的に製薬企業のビジネス上のメリットにならない事業だ。同社も参加企業も手弁当であり、有り体に言えば「薬が売れる」ものではない。しかし、同社にとってこの構想は「単なるCSRに留まるものではない」と大塚氏は強調する。それでもなお注力するのは「製薬企業として持続可能性のある医療環境の構築、醸成は弊社の使命」「何よりもパーキンソン病に困りごとを抱える患者さんの役に立ちたい」(金生氏)という理由による。同社の行動の判断の基準は順に「Patient(患者さん中心)」「Trust(信頼関係の構築)」「Reputation(レピュテーションの向上)」「Business(事業の発展)」であり、まず「患者のためになるか」が最初に来るのだそうだ。

硬直化しやすい日本の医療業界にあって、ケア・フォー・ワンのようにまったく新しいモデルを導入することは、決して簡単ではない。しかし、大塚氏は「ハードルもあるが実現は可能」だとする。そのために大事になるのが「成功体験を積み重ねていくこと」(同氏)だ。同社は他自治体とも連係を強めており、このような取り組みを各地で続けていくという。

「そのうえで重要なのが、患者さんのニーズです。医療業界ではどうしても規制やほかのステークホルダーとの関係が気になって、患者さんのニーズに応えることが後回しになってしまうことがある。そこをしっかり見直して、ニーズのあることをしていけば、今回の神奈川県共同プロジェクトのように、デジタルトランスフォーメーションはもたらせるのです」(大塚氏)

武田薬品工業はグローバルで事業を展開する国内最大手の製薬企業だ。同社が日本の医療のデジタル化に自信を持てるのは、その事業規模によるところもあるだろう。参加企業に​デロイト トーマツ コンサルティングやセールスフォース・ドットコムといった大企業が名を連ねているが、たとえばいちベンチャー主導のプロジェクトではこうはいかない。直接の利益に結びつかなくとも「環境の醸成」に投資できるのは、企業としてしっかり体力があるからとも言える。

逆に言えば、武田薬品工業のような実行力のある企業が、製薬業界の中では珍しいものの、すでに動き始めている。長らく難しいとされてきた日本の医療のデジタル化だが、今まさに潮目が変わりつつあることを感じさせられる事例だ。

 

武田薬品工業とインテグリティ・ヘルスケアが共同で開発する、パーキンソン病患者を対象にした疾患管理システム「モニパド」。Apple WatchとiOSの症状管理アプリで構築される。2020年7月から同システムを活用した臨床研究が神奈川県で開始されている。武田薬品工業はテクノロジーによるイノベーション、および持続可能性のある医療提供体制の構築に積極的に取り組む。

 

 

モニパドでは、振戦とジスキネジアというパーキンソン病の二症状を自動計測。それぞれの程度と持続時間を割合で表示し、患者・医師双方が共有できる。オンライン問診では便秘や睡眠障害など、パーキンソン病のそのほかの症状についても聞き取り可能で、活動量や歩数、転倒についてもApple Watchにより把握できる。また、ウェアリング・オフ現象が発生したときは、Apple Watchの簡単な操作でその状況を記録できる。

 

 

医療へのICT導入に積極的な武田薬品工業では、そのほかにもさまざまなデジタルでの取り組みをしている。たとえば「In Their Shoes」は、炎症性腸疾患患者の生活を体験するシミュレーションプログラム。患者の多くは頻回の下痢や血便、腹痛、発熱、さらに慢性疲労に悩まされながら日常生活を送るが、見た目にはそれがわかりにくい。患者と同じ状況になって考える(In Their Shoes)ことで、病気への理解を深める。【URL】https://ibd-intheirshoes.jp/

 

武田薬品工業のココがすごい!

□ 「オンラインで診察、薬は家に配送」がすでに実現している。
□ パーキンソン病の課題をApple WatchとiOSアプリで解決する。
□ 確かな実行力で大企業が日本の医療のデジタル化に取り組む。