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ゴルフのおかげで、旅、友、嬉し涙 一の旅 幸運 ~チャールスとアンの寝室で~

【第1回】ゴルフマナーを叱られに英国へ ~タイ/イングランド~(1)

2017.01.23 | 鈴木康之

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ホアヒンでの出会い

 

 地球のほぼ反対側の、英国南部の町にゴルフ友だちのチャールスとアンがいる。いつも頭の中にいる。無性に嬉しい。私とワイフの宝物である。

 チャールスとアン。このなにやら高貴な名前を持つ夫婦との親しいつきあいの始まりは、タイのゴルフ場であった。私がタイ王室の避暑地ホアヒンの、王様用のゴルフコースを雑誌『ゴルフダイジェスト・チョイス』の取材で訪ねた時のことである。成田を夜の便で発って早朝にバンコク着、ワゴン車で二百数十キロを南下、1ラウンドして1泊、翌朝発って帰ってくる強行軍だったから、ゴルフバッグなどは貸しクラブでいいとふつうの人なら思うところだが、私は可愛いゴルフバッグをタイのゴルフ場の風に触れさせてあげたいという思いから連れていくことにした。

 写真家は撮影の仕事がある。私が1人で手引きカートを引いてスタートしようとしていると、キャディマスターが英国人観光客の夫妻と一緒に回れと言う。私の英会話は相当なブロークンだが、挨拶ぐらいはできる。いきなり旦那のほうが私のゴルフバッグを指さし、「行ったことがあるのか」と高い声で言った。指さしたのは、マクリハニッシュというスコットランドの端っこにある桃源郷のような知る人ぞ知る名コース、そこのプロショップで買ってきたゴルフバッグの、シンボルのミヤコドリを倶楽部名の文字で円形に囲ったロゴマークである。わざわざマクリハニッシュまで足を運んだとは、このちっこいジャパニーズは相当好き者だ、と見抜いたらしい。

 175センチ、90キロはあろうLサイズのチャールスのドライバーショットは低くてバナナのようにスライスするが、左のラフの上からちゃんとフェアウェイ・センターへ着地する。Sサイズのジャパニーズの三まわりも四まわりもでかい体軀だが、日英飛距離合戦はいい勝負だ。ただしショートゲームが、早いのが取り柄の日本選手に比べ、英国選手はこんな観光ゴルフだというのに真剣になって狙い定めて楽しんでくるので、オナーはたいてい英国側がとる。

 

 

 アンは旦那を二まわりほど小振りにしたふくよかなレディだ。ままならないボールの行方を「オー、オー」と笑って楽しむ奥様ゴルフ。これならうちの奥方でも遊び友だちになれるなと思ったのである。

 コースは多種多様な樹木の自然林に囲まれている。樹齢数百年の大木が多い。緑の深さに圧倒される。ホール間の木々の中には、緑色の虎、象、鶏、ガチョウ、犬などがいる。柘植の木の枝を造形して刈り込んだ英国庭園によく見られるオブジェである。

 13番グリーンに近づいていくと山からの風が読経の声を運んできた。遅からず速からずのテンポ。13番は私がうまくいき、汗を拭き拭き、先に14番パー3のティに上がった。グリーン奥の山腹に尖塔が午前の陽を受けて眩しく光っていた。読経はそこからではなく、ティのすぐ左手の山にある寺院からだった。読経が終わり、打楽器の合奏に変わっていた。カランジャラン、カランジャランと弾む乾いた音が甚だしく私のコンセントレーションの邪魔をした。仕切り直すべきかと一度は逡巡したが、根がせっかち、エイヤと振った。案の定引っかけてグリーン左のバンカーへ。

 

 

 チャールスはティアップしてから、鳴り止まぬカランジャランに突然張り出した腹を揺すりながらアイリッシュの膝跳ね踊りを披露して周りを笑わせた。それからひと呼吸いれて、ビシッと打ってピンハイ2メートルに決めた。

 私はバンカーからホームランで無念のOB。ドロップが目玉になって、寄らずの6。チャールスのバーディトライはカップをかすめ、仰天の速いラインを滑っていってしまい、4パット。散々な14番をホールアウトすると、合わせたように打楽器の合奏がようやく鎮まった。アンのキャディがきょうは大きな葬式をやっているんだと言った。私は「チャーリー、仏さんがまだゴルフにだいぶ未練のあるお方だったようで、邪魔されちゃったねぇ」と言いたかったが、英作文がとても間に合わなかったので、諦めた。

 上がってみれば日英両選手ともまずまずのできだった。ワンラウンドして、シンガービアをおごりおごられて二杯ずつ。写真と雑誌ができたら送るとアドレスをメモ用紙に記して交換した。

 帰ってから地図で探すと、チャールス&アン・ソーントン夫妻の町フリムリーグリーンはロンドン西南の郊外、有名なゴルフ場、ウエントワースやサニングデールの少し先だった。手紙を添えて写真と雑誌を送った。英国人への書簡というものは形式で緊張するものだ。そこで私は「英国人との文通は不慣れなので」とのっけからアイム・ソーリーを入れた。そしてユーモラスな彼の表情を思い出してジョークもどきの一節も工夫して書き添えた。

 メールアドレスをつけておいたのが利いて、チャールスからはすぐにメールで返信があった。

 以来メールだ。メールは楽でいい。とはいえイングリッシュ。読むにも書くにも辞書と首っ引きで1時間はかかる。

 

ヒースローで再会

 

 翌2000年の春、チャールスにメールを送った。ことしの夏、ワイフとスコットランドへ行くが、帰りにロンドンに降り、それから東海岸のサンドイッチ周辺のコースを回る予定を立てている。ロンドンで再会できると嬉しいが会えるだろうか、と。すぐに返信が来た。それならうちにstayしろ、夫婦2組で一緒にゴルフをしようじゃないか、と書いてある。

 え、えっ、stayだと。私とワイフは分からなくなった。旅先のゴルフ場でたった5時間ゴルフしてビールを飲んだだけなのに「泊まれ」とは。stayには別な意味があるのではないか。しかも「うちに」に該当する英語がないぞ。そこで私は「君の町にホテルがあるのか」とまるで惚けたことを聞いてみた。「わが家の部屋にステイしろ」と返事が返ってきた。「何泊ステイできるか」とも。

 サンドイッチ滞在を急遽1泊削ってソーントン家2泊3日にした。

 ヒースロー空港。ガラスの向こうに懐かしい大きな体が見えた。向こうもちっこいこっちがすぐに分かったらしく手を上げている。

 雅代を紹介した。彼のクルマはホンダのワンボックスだった。車の中で「仕事はオフなのか」と尋ねたら、もうリタイアしているのだと言う。61歳。私たちはそんなことも初めて知った仲なのである。私はその年63歳。「アイム・オールダー・ザン・ユー・バイ・トゥー」と言った。こんな会話があるだろうと思って覚えていったbyがさっそく使えた。チャールスは私を七つ八つ年下だと思っていたらしく、驚いていた。

 ウエントワースやサニングデールをかすめていく一帯は森かと見まがうスケールの高級住宅地である。ソーントン家がこの中の大邸宅だったらどうしようとドキドキしたが、心配は無用だった。樹木生い茂る辺りを過ぎた明るい住宅地の、無駄な華美のないこぢんまりとした家だった。

 夫妻は自分たちの寝室を私たちに空けてくれた。ダブルベッドでいっぱいいっぱいで、スーツケースを開けるのがやっとの部屋だった。夫妻は嫁いだ娘の部屋に移ってくれたのだ。

 私たちは荷をほどき、新婚以来三十数年ぶりのダブルベッドに乗っかってニヤニヤしてしまった。「でもさぁ」と私は言った、「おれたち、異国でたった5時間ゴルフしただけの東洋の男の夫婦を、自分の家の自分たちの部屋に泊めるかぁ」と。雅代は上機嫌だから「あなたを信用できたのよ」とお上手を言ったが、私はこの不思議がずっと釈然としなかった。のちに英国に長くいた友人の解説で、都合よく納得することにした。友人の解説は、英国ではゴルフする人は乗馬やテニスと同じくある倶楽部に属している、つまり彼らの言葉を使えばソサエティに所属することを認められている人物であること、そしてミスター&ミセスで旅をするカップルはそれだけでクレジットになること、という英国の文化を教えてくれた。

 

「シャノー・ナンバー・ファイブ」

 

 夫妻への土産を持って下りていった。女は女なりのものを渡した。私からチャールスへのメインの土産は四合瓶の日本酒2本。浦霞の純米吟醸「禅」と出羽桜の本吟醸「枯山水」。「アワー・モスト・フェイヴァリット・サケス」である。「禅」のラベルの布袋さんの腹がチャールスのそれといい勝負だし、頭部の形といいにこやかな表情といいよく似ている。布袋の説明をしてから「ホテイ・イズ・ライク・ユー」と言ってあげた。彼はすぐに飲みたがったが、冷やしたほうがいいと、冷蔵庫に入れさせた。

 

 

 その晩も翌日も「スーパーブ」と唸りながら飲んでくれた。チャールスが気に入ってくれるだろうと成田からエジンバラ、セントアンドリュースと重たい2本を運んできた甲斐があった。

 いつまでも明るい幸せの黄昏。15ヤードほどのアプローチ・ショットもできる庭でビールを飲んでから、ネパール料理店へ行くことになった。その前に近所のパブへ連れていってくれた。住宅地の中の一軒家である。6時前だったと思うが20人ほどの男女で賑わっていた。私たちにはミセスが2人いたからだろう、テーブル席につくことになった。そこでチャールスが大の仲良しだというブライアン・ハモンドを紹介してくれた。テリー・サバラスにそっくりで、見事なスキンヘッド。顔の肌も赤ちゃんのように艶やかな紅みで光っていた。

 チャールスがブライアンに「ヤスはいくつだと思う」と聞いた。ブライアンは10歳若く見てくれた。こんどはチャールスが私たちに「ブライアンはいくつだと思う」と聞いてきた。私たちより2つ3つ年上かと見た。雅代もそんなところじゃないかと言う。正解は70歳であった。私がブライアンに「若さを保つあなたの秘訣は何」と聞いた。にやにや笑っていたが、まともに答えたくない様子。「イッツ・ア・シークレット・ソープ」と言ってチャールスたちとゲラゲラ笑ってから、「アバウト・ユー」と聞いてきた。私は「アイム・オールソー・ユーシング・ア・シークレット・ソープ」と答えてから「ドゥ・ユー・ライク・トゥ・ノウ・ザ・ネイム」と聞いた。酔いが舌を回らせてきた。

 ふだんの私と比べたら夕方からすでに結構飲んでいることになる。「イエース」と顔を覗き込んできたから、私は両手を両頰に当てマリリン・モンローの薄目をして答えた、「イッツ・シャノー・ナンバー・ファイブ」。シャネルをシャノーと発音することぐらいは私も承知している。

 チャールスも笑ったが、ブライアンは椅子から転げ落ちそうになるほど身をよじって笑い出した。それほどおかしい笑いではないはずだが、私は思った、これだな、英国人たちの会話の楽しみ方は、と。とにかくよく笑いあう。パブの、酒席の作法なのだ。

 調子に乗った、というより乗せられた私は、当時の新聞ダネになった、私同様に英語コンプレックスの日本の総理大臣が米国大統領と交わした会話を、知ってるかと聞いた。ブライアンもチャールスも知らないと言うので、聞かせることにした。

 日本の総理大臣が「ハワ・ユー」「アイム・ベリー・ファイン。サンキュー。アンジュー」「ミー・トゥー」の挨拶の定型を覚えていった。さて、総理大臣、「ハワ・ユー」を言うべきところ、緊張のあまり「フー・ア・ユー」と言ってしまった。大統領はサプライズ。しかしまともに受けて、相手に恥をかかせるお方ではない。「アイム・ヒラリーズ・ハズバンド」と答えた。さすがである。ここで1つ笑いがとれた。総理大臣は、大統領が挨拶の決まり文句通り「アイム・ファイン。サンキュー。アンジュー」と言ったものと思い込み、覚えていった通りの次の言葉を口にした、「ミー・トゥー」。

 こんどはブライアンは天井を突き上げるような嬌声を発しながら手を叩き、ついに椅子から転げ落ちた。チャールスもアンも大笑いしてくれた。

 「今日の若いジャパニーズは英語を話す。英語の歌も歌う。しかし総理大臣や私のジェネレーションは、リーディングとグラマーの英語教育しか受けてこなかった。カンバセーションはしてこなかったのだ」と総理大臣と私自身のために釈明しておいた。

 チャールスのクルマで街中のネパール料理店へ行った時は、私はもう出来上がりつつあった。

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