コンピュータに嵌まっていき、デジタル回路の設計から、コンピュータ・ボード制作、そしてプログラミングなど、ハードもソフトこなせるようになっていきます。
しかし、音楽制作への夢は捨てきれませんでした。行きつけの喫茶店を見つけて平日毎日通うようになり、そこのマスターに愚痴ばっかり言うようになってしまいます。
ここのマスターは地元出身ですが、東京でアパレルの仕事をしていて、その後Uターンで地元に戻って自分の好きな喫茶店を始めた方でした。
お店ではちょっと都会的な雰囲気が味わえ、奥さんは私の実家の近く出身だったので、気も合い通うようになります。
マスターは、洋楽も好きだったので、私が買ったレコードから良い曲を選んでカセット・テープを作って渡していました。その喫茶店は鬱憤を晴らせる唯一の場所でもありました。
しかし、入社して3年目が近づき会社を辞める決意をします。まずは、独身寮の部屋の整理から始めました。いつでも引越しができるようにいらないものを捨て、レコードは会社からもらってきた段ボールに箱詰めしていきます。引越しの準備が整った時、上司から呼び出されます。
「親会社の音響工場へ出向してくれ」と言われました。きっと私のような技術に弱い人間は行きたくても行けない場所でもあります。引越の準備もできていますし、このようなチャンスは活かそうと考え出向することにします。
出向先の工場は横浜の磯子にあり、私は白楽というところでアパートを探して住むことにします。
最初の仕事は、カラオケ装置の設計のお手伝いでした。すでに設計まで終わっていて、基盤設計から作業に入ります。CADというシステムを使用して基盤の設計を若手の社員に教えてもらいながら一緒に作業を進めます。
出向先で初めて徹夜をしました。工場のラインを止める訳には行けないので、スケジュール通りに作業を進めなければならないのですが、初めての基盤設計で遅れてしまい、徹夜で作業をしました。本来であればCADシステムへのデータ入力は選任のオペレーターが行うのですが、夜中に自分たちでデータ入力することもありました。
基盤が完成し、部品を載せて基盤がちゃんと動作するかテストします。その後、カセットやエイト・トラックなどのメカをセットして筐体に固定していきます。
コントロール用のプログラムを制作することになりましたが、音響工場にはオーディオに関するアナログのエンジニアはたくさんいるのですが、プログラムを組める人材が不足していました。そこで私に白羽の矢が当たり、何とカラオケのハードの制御プログラムの仕様を任されます。
音響工場のエンジニアの方々は優秀なのですが、ルーチンの作業が忙しいためデジタルやコンピュータの勉強をする暇が無いようで、ゆっくり勉強させていただいた私は本当にラッキーでした。
学校では落ちこぼれだった人間が、こんなところで重宝がられるとは、夢にも思いませんでした。
実際ハードが組み上がってきて、今度はカラオケで歌いながらエコーなどの調子などを見ることになり、レコード会社に務めているという理由で私がその担当になります。
音響工場には、1階にりっぱなレコーディング・スタジオがありました。コントロール・ルームには、ミキサー、エフェクターからマルチトラックのレコーダー、スタジオにはスタインウェイのグランドピアノ、そして高級なマイクロフォンなどもあり、いつでも本格的レコーディングができる場所でした。
そのスタジオに、カラオケのハードを持ち込み、昼間から酒も飲まずに片手に半田ごて、もう片手にはマイクを持ってひたすらカラオケを歌いながらエコーの具合を調整します。
実は、それまで私はカラオケが大嫌いでした。というよりロッカーはカラオケなんか格好悪いことはやらないという主義だったのです。
しかしこの仕事を通じてカラオケが好きになり、仕事が終わると音響工場で友達になった連中とカラオケに行くこともありました。
カラオケ装置のチェックのためいろんな会社のカラオケ・ソフトを購入していたので、演歌から洋楽までいろんな曲を練習できました。それも仕事時間中にです。
会社を辞めるつもりでいた私は、出向で音響工場へ。そこで初めて徹夜を経験し、そしてカラオケに目覚めてしまいます。さらにデジタルやコンピュータの勉強してきたことが大手ハードメーカーで活かされるという信じられない事態になりました。