「やっさんが死んだ」
電話の向こうでなかちゃんが言った。
携帯ではなく、事務所に電話をしてきたのは、なかちゃんこと、中谷晃次とぼくが疎遠だった証明みたいなものだった。それなりに付き合いがあれば、個人的なことは携帯電話にかけてくる時代になった。
秘書とは名ばかりの電話番と雑用のアルバイトの女子大生が、ナカタニさんからお電話です、と内線で伝えてきたときに、ナカタニがなかちゃんだとわかるまでに、けっこうな時間がかかった。
氏川康夫。通称やっさんとなかちゃんは、高校時代のバンド仲間だった。
2人は小学校と中学校が同じ幼なじみで、やっさんは都内で現役東大合格者が最も多い公立高校に通っていて、なかちゃんは私立の進学校に通っていた。
ぼくはやっさんの通っている公立の次に入学するのが大変だった公立高校に通っていた。ちなみに、十年に一度ぐらい東大に合格する生徒がいるという感じの高校だ。
バンドメンバーを探しているときに、友達の紹介でやっさんと会った。リードギターになってもらって、やっさんの推しでなかちゃんはベースになった。2人とも高校生としてはなかなかの腕前で、特になかちゃんのベースはプロを目指してもおかしくないぐらいのレベルとセンスがあった。
他に女子校に通っていた女子のキーボードがいて、ドラムはしょっちゅう入れ替わっていた。バンドは、僕が作ったオリジナル曲を演奏していた。高校2年で結成して、約1年だけ活動していた。
高校がバラバラなので、活動するのは学園祭とかではなく、ライブハウスだった。プロ志向のバンドだと一部には認知されていた。
「やっさんが、ゼネコンにいたのは知っていた?」
なかちゃんは少し苛ついた声で聞いて来たので、知らなかった、と答えた。
やっさんとは、バンドが解散してからは、全く会っていなかった。何度か、駅なんかで見かけたことはあったが、それだけだった。
バンド結成以来、毎日のように遊んでいたのはやっさんとだった。なかちゃんはバンド以外で付き合いがあった思い出がないが、やっさんとは、一緒に楽器を弾くだけでなく、ナンパしたり、麻雀をしたりして遊んだ。
その頃の知り合いと会うと、やっさんの話題が出ることがある。疎遠だというと、親友だったのにね、と不思議がられる。
なかちゃんとは、仕事の関係で何年かに1回程度会うことがあった。
一浪して美大に進学して、あんなに才能があった音楽は辞めて、卒業後にすんなり広告代理店に入社して、クリエーターという訳のわからない仕事をしていることは知っていた。
ぼくのことも、売れなくなったシンガーソングライターを廃業して、音楽プロデューサーという肩書きのカラオケ教室の先生で、若い頃に少し売れた楽曲の印税が収入の半分以上を占めているというところまで知っているはずだった。
お互いに仕事上の接点はないはずだが、どういう訳だか、会う機会があるのだから不思議なものだ。
会っても、やっさんのことを話題にすることはなく、お互いに、最近はどうよ、とか、当たり障りのない会話をしていた。
やっさんとなかちゃんは、たぶん、幼なじみとして親しく付き合っていたのだと勝手に考えていた。
なかちゃんは、やっさんが亡くなった状況を説明してくれた。
東北の震災で、ゼネコンは復興のために大忙しなのだそうだ。震災の年から現地に単身赴任して、陣頭指揮を執っていたやっさんは、復旧が遅れているエリアの現場で心筋梗塞で倒れた。
被災の現地を知らない者には、テレビなどの報道で流される映像が、膨大な被害地のほんの一部だということをイメージできない。震災から3回目の夏が来て、やっと電気が復旧したエリアがあることが報道されて、震災の被害の大きさを改めて知った人は多い。
もし、やっさんが普通の都市で、同じように倒れたのだったら助かった可能性が高いという。
被災地には、病院が少なく、医師もいない。下手をすると救急車の数も足りていない。仕事とは言え、そういうところで働くということは、いざというときのリスクを背負っているのだと、なかちゃんは怒るように言った。
「こうくん。お通夜は行くよね?」
来るよな、と聞かれないことにホッとした自分がいた。行くよね、には、彼もビジターだという暗黙のメッセージが含まれるけど、来るよな、というのはより親しいことを強調された上で、強制力も強い感じがする。
なかちゃんには悪いけど、行く気にはならなかった。僕らは既に五十歳に近い大人である。知り合いが死ぬことは珍しいことではないし、そもそも三十年近く会っていない友人のお通夜というのは微妙だ。
返事に困っていると、その迷いを断ち切るように、なかちゃんは言った。
「明日は友引で駄目だから、明後日がお通夜になるらしい。場所とか時間とかは、あとでファックスを送っておくから」
そこで、なかちゃんは小さなため息をついた。
「やっさんの奥さんが、どうしてもこうくんに渡したいものがあると言っているから。絶対に都合をつけてね」
そう言われても、とは言えなかった。電話は僕の返事を待たずに切れた。
こうくんというのは、ぼくのことだ。
紅野基哉。コウノのこうをとって、あの頃はこうくんと呼ばれていた。
今日は、敬老の日で、一般的にはお休みしても良い日である。それなのに、祭日の夕方に事務所の電話にアルバイトが出て、雇い主に繋がるという事情は、休みの日が都合が良いという生徒のカラオケ教室のレッスンが午後に入っていて、終わった直後だったからだ。こういうことを忙しいとはいわない。暇で、都合がつく、と解釈されても反論はできなかった。
なかちゃんは、そんなことを言葉にはしなかったけど、言わないことでプレッシャーをかけている雰囲気は伝わった。
「失礼します」
普段ならお願いしても、なかなか機嫌良くコーヒーを入れてくれない女子大生のアルバイトが、満面の笑みでコーヒーを持って自宅スペースになっているぼくの部屋に入ってきた。
「先生って、中谷晃次さんと知り合いなんですね」
と言いながら、机の端にコーヒーカップを置いた。彼女がぼくを先生と呼ぶときは、たいてい、なんらかの下心がある。
「なかちゃんって、君が知っているほど有名なんですか?」
「超有名ですよ」
驚くぼくを見て、彼女は呆れた様子で、いくつかの有名な企業のCMを挙げて、それらは中谷晃次の仕事で、国内外で広告の賞も取っているのだと説明してくれた。
「流石、モデル志望。よく知っていますね」
一応、コーヒーも入れてもらったので、褒めてみた。
「紹介してくださいよ。先生」
「いやいや、無理。そういう約束はできません。そもそも、高校時代のバンド仲間だっただけで、それ以上でも以下でもありませんから」
「でも、亡くなったお友達のお通夜には行くんですよね?」
悪びれず彼女は言った。電話の機能で、別の電話機からでも通話を聞けることを思いだした。コーヒーを持ってくるタイミングが良いはずである。
「盗み聞きするようなバイトに、答える義務はありません」
「先生。ごめんなさい」
素直に深く腰を折って、彼女は謝った。そのままの姿勢で、甘えた声を出した。
「先生のバンドの話を聞かせてください。ネットの動画とかで、先生が歌っているところを見たことはあります。でも、ソロしか知らないので、教えてください」
彼女は、お辞儀の姿勢のまま、顔だけをあげて、下からぼくの顔を覗き込んだ。モデル志望だけに、自分の可愛い見せ方を知っている。
『やっさんの供養になるかもしれない』と急に考えた。
コーヒーカップを手にとり、一口だけ飲んだ。
「頭を上げなさい。退屈かもしれないけど、昔話をしましょう」
はい、と嬉しそうに彼女は頭を上げた。
電話の向こうでなかちゃんが言った。
携帯ではなく、事務所に電話をしてきたのは、なかちゃんこと、中谷晃次とぼくが疎遠だった証明みたいなものだった。それなりに付き合いがあれば、個人的なことは携帯電話にかけてくる時代になった。
秘書とは名ばかりの電話番と雑用のアルバイトの女子大生が、ナカタニさんからお電話です、と内線で伝えてきたときに、ナカタニがなかちゃんだとわかるまでに、けっこうな時間がかかった。
氏川康夫。通称やっさんとなかちゃんは、高校時代のバンド仲間だった。
2人は小学校と中学校が同じ幼なじみで、やっさんは都内で現役東大合格者が最も多い公立高校に通っていて、なかちゃんは私立の進学校に通っていた。
ぼくはやっさんの通っている公立の次に入学するのが大変だった公立高校に通っていた。ちなみに、十年に一度ぐらい東大に合格する生徒がいるという感じの高校だ。
バンドメンバーを探しているときに、友達の紹介でやっさんと会った。リードギターになってもらって、やっさんの推しでなかちゃんはベースになった。2人とも高校生としてはなかなかの腕前で、特になかちゃんのベースはプロを目指してもおかしくないぐらいのレベルとセンスがあった。
他に女子校に通っていた女子のキーボードがいて、ドラムはしょっちゅう入れ替わっていた。バンドは、僕が作ったオリジナル曲を演奏していた。高校2年で結成して、約1年だけ活動していた。
高校がバラバラなので、活動するのは学園祭とかではなく、ライブハウスだった。プロ志向のバンドだと一部には認知されていた。
「やっさんが、ゼネコンにいたのは知っていた?」
なかちゃんは少し苛ついた声で聞いて来たので、知らなかった、と答えた。
やっさんとは、バンドが解散してからは、全く会っていなかった。何度か、駅なんかで見かけたことはあったが、それだけだった。
バンド結成以来、毎日のように遊んでいたのはやっさんとだった。なかちゃんはバンド以外で付き合いがあった思い出がないが、やっさんとは、一緒に楽器を弾くだけでなく、ナンパしたり、麻雀をしたりして遊んだ。
その頃の知り合いと会うと、やっさんの話題が出ることがある。疎遠だというと、親友だったのにね、と不思議がられる。
なかちゃんとは、仕事の関係で何年かに1回程度会うことがあった。
一浪して美大に進学して、あんなに才能があった音楽は辞めて、卒業後にすんなり広告代理店に入社して、クリエーターという訳のわからない仕事をしていることは知っていた。
ぼくのことも、売れなくなったシンガーソングライターを廃業して、音楽プロデューサーという肩書きのカラオケ教室の先生で、若い頃に少し売れた楽曲の印税が収入の半分以上を占めているというところまで知っているはずだった。
お互いに仕事上の接点はないはずだが、どういう訳だか、会う機会があるのだから不思議なものだ。
会っても、やっさんのことを話題にすることはなく、お互いに、最近はどうよ、とか、当たり障りのない会話をしていた。
やっさんとなかちゃんは、たぶん、幼なじみとして親しく付き合っていたのだと勝手に考えていた。
なかちゃんは、やっさんが亡くなった状況を説明してくれた。
東北の震災で、ゼネコンは復興のために大忙しなのだそうだ。震災の年から現地に単身赴任して、陣頭指揮を執っていたやっさんは、復旧が遅れているエリアの現場で心筋梗塞で倒れた。
被災の現地を知らない者には、テレビなどの報道で流される映像が、膨大な被害地のほんの一部だということをイメージできない。震災から3回目の夏が来て、やっと電気が復旧したエリアがあることが報道されて、震災の被害の大きさを改めて知った人は多い。
もし、やっさんが普通の都市で、同じように倒れたのだったら助かった可能性が高いという。
被災地には、病院が少なく、医師もいない。下手をすると救急車の数も足りていない。仕事とは言え、そういうところで働くということは、いざというときのリスクを背負っているのだと、なかちゃんは怒るように言った。
「こうくん。お通夜は行くよね?」
来るよな、と聞かれないことにホッとした自分がいた。行くよね、には、彼もビジターだという暗黙のメッセージが含まれるけど、来るよな、というのはより親しいことを強調された上で、強制力も強い感じがする。
なかちゃんには悪いけど、行く気にはならなかった。僕らは既に五十歳に近い大人である。知り合いが死ぬことは珍しいことではないし、そもそも三十年近く会っていない友人のお通夜というのは微妙だ。
返事に困っていると、その迷いを断ち切るように、なかちゃんは言った。
「明日は友引で駄目だから、明後日がお通夜になるらしい。場所とか時間とかは、あとでファックスを送っておくから」
そこで、なかちゃんは小さなため息をついた。
「やっさんの奥さんが、どうしてもこうくんに渡したいものがあると言っているから。絶対に都合をつけてね」
そう言われても、とは言えなかった。電話は僕の返事を待たずに切れた。
こうくんというのは、ぼくのことだ。
紅野基哉。コウノのこうをとって、あの頃はこうくんと呼ばれていた。
今日は、敬老の日で、一般的にはお休みしても良い日である。それなのに、祭日の夕方に事務所の電話にアルバイトが出て、雇い主に繋がるという事情は、休みの日が都合が良いという生徒のカラオケ教室のレッスンが午後に入っていて、終わった直後だったからだ。こういうことを忙しいとはいわない。暇で、都合がつく、と解釈されても反論はできなかった。
なかちゃんは、そんなことを言葉にはしなかったけど、言わないことでプレッシャーをかけている雰囲気は伝わった。
「失礼します」
普段ならお願いしても、なかなか機嫌良くコーヒーを入れてくれない女子大生のアルバイトが、満面の笑みでコーヒーを持って自宅スペースになっているぼくの部屋に入ってきた。
「先生って、中谷晃次さんと知り合いなんですね」
と言いながら、机の端にコーヒーカップを置いた。彼女がぼくを先生と呼ぶときは、たいてい、なんらかの下心がある。
「なかちゃんって、君が知っているほど有名なんですか?」
「超有名ですよ」
驚くぼくを見て、彼女は呆れた様子で、いくつかの有名な企業のCMを挙げて、それらは中谷晃次の仕事で、国内外で広告の賞も取っているのだと説明してくれた。
「流石、モデル志望。よく知っていますね」
一応、コーヒーも入れてもらったので、褒めてみた。
「紹介してくださいよ。先生」
「いやいや、無理。そういう約束はできません。そもそも、高校時代のバンド仲間だっただけで、それ以上でも以下でもありませんから」
「でも、亡くなったお友達のお通夜には行くんですよね?」
悪びれず彼女は言った。電話の機能で、別の電話機からでも通話を聞けることを思いだした。コーヒーを持ってくるタイミングが良いはずである。
「盗み聞きするようなバイトに、答える義務はありません」
「先生。ごめんなさい」
素直に深く腰を折って、彼女は謝った。そのままの姿勢で、甘えた声を出した。
「先生のバンドの話を聞かせてください。ネットの動画とかで、先生が歌っているところを見たことはあります。でも、ソロしか知らないので、教えてください」
彼女は、お辞儀の姿勢のまま、顔だけをあげて、下からぼくの顔を覗き込んだ。モデル志望だけに、自分の可愛い見せ方を知っている。
『やっさんの供養になるかもしれない』と急に考えた。
コーヒーカップを手にとり、一口だけ飲んだ。
「頭を上げなさい。退屈かもしれないけど、昔話をしましょう」
はい、と嬉しそうに彼女は頭を上げた。