【第01回】序 あした風 | マイナビブックス

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星の流れに 風のなかに 宇宙の掌に

【第01回】序 あした風

2016.04.28 | 澤慎一

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序 あした風

西新宿の高層マンションから、ひとりの女性が飛び降りた。九月の終わり。涼しく秋らしい風が吹くようになっていた。落ちたとき後頭部を打ったので、幸いにも顔はきれいだった。お通夜で仲がよかった女友だちが集まり、死んだ彼女の顔にみんなで化粧をした。
「きれいな顔のままで、よかったね」
女友だちの一人が言った。
薄く頬紅を塗った彼女はまるで生きているみたいで、その眠りはとてもやすらかだった。みんなは、彼女の棺に、彼女が大好きだった白い薔薇の花を、次々と添えた。みんなは泣いた。
彼女は、二十六歳だった。

十五分前。彼女は、非常階段の下でマンションの管理人と会った。ふらふらして酒に酔ったような様子の彼女を見て、管理人は「大丈夫ですか」と声をかけた。
「大丈夫です。酔いを醒ますだけだから」。彼女は気丈な様子でこたえた。
管理人が、生きている彼女を見た最後の人となった。

二時間前。彼女は部屋で遺書らしいものをノートに書いた。日付と時刻まで書かれている。几帳面な彼女の性格をあらわしていた。
そのノートには、こう書かれていた。

未来がない。未来が感じられない。
自分を完全に否定され、すっかり自信を失くしてしまった。
ひたすら苦しい。息をするのも苦しい。消えてしまいたい。
眠っていない。泣いてばかりいる。
出口が見えない。未来がない。未来なんていらない。

自殺だったのか、本当に酔いを醒ますだけだったのか、本当のところはわからない。
彼女の部屋のミニコンポには、COCCOの『Raining』がエンドレスで入って流れていた。開けっ放しのベランダのレースのカーテンが夜風に揺れていた。その向こうには新宿パークタワー独特の段状の明かりが見えた。
彼女は、酒と一緒に大量の精神安定剤を飲んだ。机の上には薬をストックしていた箱が開いていた。いつも持ち歩いているピルケースも空いていた。たくさんのクスリと空のシートが散乱していた。そこから先はなかった。そこで時間は止まっていた。
ピルケースは戻らない主を待ち続けていた。音楽を止めてくれる主もいなかった。

一日前。彼女は、付き合っている彼にメールを送った。
「毎日、ぼんやりと死ぬことばかり考えています」
彼は、彼女に返事を書いた。

〝死はいずれだれにでも訪れるもので、自分で死を選ぶことはできる。
でも一度の人生をどう生きるかは自分自身が決めること。死ぬことも同じ。
ただ思うのは、生きることはやり直しができるけど、死んじゃったらリセットはきかない。だから死を選ぶことは、本当に本当の最後の手段として残しておいた方がいい。
きみには生きていて欲しい〟

その時、彼はちょうど出張で東京から遠く離れた場所にいた。東京に戻ったら会おう、お土産を渡すよ、というメールを送った。

一ヵ月前。彼女はCOCCOの生ライブを聴いていた。野外ライブだった。彼女がCOCCOを実際に見るのはこれが初めてだった。彼と行った。
COCCOがステージにあらわれると、彼女は「あっちゃーん」と声をあげた。彼女の表情はふっくらと白い薔薇が咲いたみたいに、うっとりしてやさしかった。COCCOは明るい南の島の楽園を 思い起こさせるような爽やかなマリンブルーのワンピースを着ていた。
「あんなに楽しそうな顔で歌っていて、よかった」
COCCOを見終えた後で、彼女はそう言った。

三ヵ月前。彼女は彼から、Flashアニメーションの『ハクシャクノテンシ』を教えてもらった。
今じゃないとき、此処ではない場所に、ドラキュラっぽくないハクシャクと、輪っかのないテンシがいた。どこかが損なわれ、どこか定まらない二人の淡い悲しい恋物語を、彼女は好きになった。
「死ぬ時は白い薔薇に囲まれたい」と、彼女は言った。

一年前。インターネットで、偶然に、ある女子高生の日記を見つけた。手首を静脈まで切って血がびゅわっと飛び出たとか、そんなことがあっけらかんと書いてあるような一見楽しそうな文章だ。彼女は行間にしか書かれていない強い孤独に共鳴し、泣きながらたくさんの日記を全部読んだ。
その女子高生――南条あやちゃんの日記で、彼女はCOCCOという歌手を知った。

二年前。彼女は仕事を辞め、自宅に引きこもるようになった。もともとしていたリストカットもエスカレートし、一生消えないくらい深い傷を残した。

三年前。彼女は子宮筋腫の手術をした。子宮を全摘出し、子どもを産めない体になった。

四年前。彼女は秘書の仕事に加えて、銀座で水商売の仕事を始めた。彼が逮捕され、保釈金が必要だった。
彼女は見知らぬ男に乱暴され、相手の男を突き止めた彼がその男と口論になり、大きなけがを負わせてしまったのだ。彼は傷害罪で逮捕され、起訴された。

五年前。この年の春から彼と暮らし始めた。まだ二人とも若くてお金がなかった。彼が突然に「花見に行こう」と言った。吉祥寺の『いせや』で一本八十円の焼き鳥を好きなだけ買って、井の頭公園へ行った。池の柵に寄りかかって缶ビールを飲んだ。桜の花びらが降りかかり、街灯にライトアップされた桜の花を見上げ、二人でくすくす微笑みあった。

六年前。彼女は、その彼と出会い、恋に落ちた。
「この世で最後に見る人があなたでありたい」
彼女は、彼にそう言った。

七年前。成人した彼女を見届けることなく、彼女の父親が癌で亡くなった。父親が入院した日から、亡くなるまで毎日、彼女は病院に通い続けた。しょっちゅう体温計で熱を測り続け、体の痛むところをさすり続けた。メモ用紙にはいつも父親の体温を細かく記載していた。
父親は最後の方は口も聞けず、彼女の顔を見ながら涙をぽろぽろ流し続けた。身体がチューブだらけになっていて、それでも心臓と弱々しい呼吸だけが動いていて、父親の胸の上では天使と、迎えに来た死神が戦っていた。
医者が「会わせる人がいるなら、会わせた方がいい」と言った。父親は「病気が治るまでだれとも会わない」と、面会人を拒み続けた。そして、そのまま、帰らぬ人となった。

八年前。離婚した父親が戻ってきた。彼女はバイトをして、おかづかいを貯めた。そのお金で家族三人で信州に旅行に出かけた。高い空と広い高原。秋の草花を背景に、写真を撮った。父親と母親との間に入って彼女は笑っていた。

十年前。彼女は家出をした。一週間友達の家を泊まり歩き、彼女は家に戻ってきた。
母親は、彼女の半てんを着て、彼女の机で彼女のアルバムを開き、ひとり泣いていた。

十一年前。友だちが万引きした。友だちは悪びれる様子もなく、盗んだ商品を自慢げに彼女に見せびらかせていた。彼女はそれを先生に告げた。友だちは補導された。
――本当は、自分を叱ってくれる人が欲しかったのだろうか。
――本当は、自分を心配してくれる人が欲しかったのだろうか。
ひとり部屋にいながら彼女は、そう思っていた。

十二年前。彼女は母親に、なぜ私を産んだのか、と訊ねた。

〝子どもは地球の宝物なのよ。
ひとりで生きていくには人生は長すぎるわ。
捨てることは簡単なことなの。
誰かのために生きることは重いことではあるけれど、
生きてゆく意味でもあるの。
子どもは弱者なの。
だから、守らないといけないの〟

十四年前。彼女は学校の課題で『HUMAN』という本を作り、その中で詩を書いた。

────────────────────
水と自分
水は 自分自身をかえている
外見をかえ 成分をかえ
自分を見て 自分を考えて
それから 自分をかえていく
私たちはそんな水のように
自分をかえて 生きてゆく
────────────────────

彼女は眠れなくて悩んでいて、母親に相談した。そして、医者に行った。
彼女は医師から、「離人症の疑いがある」と言われた。

自分が自分でないようで、自分が存在している実感、何をしても自分がしているということの実感がない。鏡の中の自分と見つめ合っていても、自分を自分だと思えない。
心を開いて話せない。どこからともなくやってくる不安。
自分の感情がわからない。自分には心がない。
自分が感じられない。未来が感じられない。何も感じられない。

この頃から彼女はリストカットをするようになった。

十五年前。小学校でコンクールに出る合唱団に抜擢された。彼女は歌の練習にはげんでいた。しかし、彼女は結局、舞台に立つことができなかった。母親の仕事の都合で引越し、長く馴染んだ学校の卒業式さえも目前にして転校してしまった。

十八年前。彼女は、マンガ本を友だちに貸すことでお金をもらっていた。働く母親の家計を少しでも助けたいと思った。クラスメイトが担任の先生に告げ口した。先生は理由も聞かないで彼女の頬をなぐった。幼かった彼女は理由をきちんと口に出して説明することができなかった。

二十四年前。母親が仕事と家事と育児に疲れ果ててうたた寝をしていた。ガスホースと遊んでいた彼女は誤って首にホースを巻きつけて自分で取れなくなってしまった。母親が目を覚まして気づいた時、彼女の顔は真っ青だった。すぐに救急車を呼んだ。もう少し遅ければ彼女は死んでいた。
息を吹き返したわが子を見て、母親は大声で笑い、そして泣いた。

二十五年前。彼女の父と母が離婚した。彼女は母親に引き取られることになった。

二十六年前。彼女はこの世に誕生した。未熟児だった。非常に危ない状態だったが、五体満足で生まれた。
母親が、いつも明日の風を感じてくれるようにと、〝明日風〟と書いて、〝あすか〟と読ませた。


──明日風は、僕の恋人である。

「きれいな顔のままで、よかったね」
女友だちの一人が言った。
みんなに化粧をしてもらい、明るく頬紅を塗った彼女はまるで生きているみたいで、その眠ったような表情はとてもやすらかだった。
僕は、冷たくなった彼女の唇にキスをした。血の通っていない彼女の唇は、氷のように冷たく、硬かった。彼女の唇に触れるのはこれが最後だった。そして彼女の体は灰になり、風に溶けていった。

僕は無力で、彼女のことを想っている。
一日、早く会えば彼女は死ななかったのかもしれない。

大切な人を失うたびに、同じことを思う。
その人の死を無駄にしちゃいけない、と。
それでも、人は忘れてしまう。

生まれても、すぐに死んでしまう人が、なんのために生まれてくるのか。
人が人と会うことに、何の意味があるか。

生きてゆくための理由。

死んではいけない理由。

仕事帰りにアパートの階段をあがる時、終電の終わった高架橋の下を通る時、雨やどりの喫茶店で窓ガラスを見つめる時、僕は風に溶けていった、君に聴いてみる。

〝君がその命と引き換えに飛び降りながら最後に感じた風は、君にやさしかったかい?〟
〝君は、あした吹くために、本当の風になったのかい?〟

君がいなくなった朝も、街は何も変わることなく、忙しげに回っている。

そんな都会の街角で、僕は時々、振り返る。
晴れた日の風の匂いだけ、いつもやさしい。
それだけのことで生きてゆける。そんな気がしている。

池の柵に寄りかかって明日の風が微笑ってた。まるで細い光のように。