【第01回】さらば友よ | マイナビブックス

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さらば友よ

【第01回】さらば友よ

2016.05.19 | 田蛙澄

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昔の人は良いことを言ったものだ。酒国は安恬、其の楽しみ得て量る可き莫き也、だ。
私はデスクの引き出しからウイスキーを取り出してラッパ飲みする。これで少しましな気分になるというものだ。
目の前にあるのはどうみても手前の頭をふっとばして脳味噌をまき散らしている死体で、おまけにここは自分の事務所と来ている。相談があったはずの女は、相談も半ばのうちに懐から拳銃を取り出して、制止するまもなく応接ソファーの上で天に召されてしまった。
私はうんざりしながら脳漿が飛び散った本棚を見る。とっくに神経系の電脳化が進み、わざわざ重い本を持たなくても自由に書籍を視覚上に映せるようになった昨今では、紙の本は物好きな読書家のための愛蔵品だ。それなりに値は張る。どれもこれも私のお気に入りだったものだ。それが今ではついさっき知り合ったばかりの女の体液で濡れている。
私は仕方なく警察に連絡をする。視覚上のスクリーンに若い警官の姿が映り応答する。
「殺人課の村上刑事に繋いでくれないか。うちの事務所で依頼人が突然自殺してしまったんだ」
応答に出た警官が少々お待ちくださいというと、保留画面に切り替わる。緩慢なメロディーとともに警察のマスコットが少々お待ち下さいと言いながらぺこぺこしている。なんだか馬鹿にされているような気分になる映像だ。しばらくして画面に村上刑事が映る。白髪交じりの中年男でくたびれたような表情をしている。声はたばこの吸い過ぎのせいかいがらっぽい。
「誰かと思ったら須藤か。私立探偵が警察になんか用か。こっちはお前と違って忙しいんだ」
「さっきの警官から聞かなかったのか、うちで依頼人が自殺したんだ」
「ああ、遂にお前さんのところでもか」
「そうみたいだ」
「分かった、今からそっちに行く。鑑識が来るまで現場を荒らさずに大人しくしてろよ」
「アイアイサー刑事殿」
通信が切れると、私はデスク越しに自分の事務所を見回してみる。本棚と対面になっている壁には時計と街の地図が掛かっているだけだ。せめてそちら側に向かって撃ってくれればと思わずにはいられない。現場となったからにはこの部屋もしばらくは使えまい。仕方なくデスクの上に積み重ねてあった本を取り上げてめくる。こちらは被害を免れたらしい。
十分後、ノックもせずに村上刑事率いる警官たちが事務所に入ってきた。村上刑事は少しの間被害者の銃創や持ち物を調べていたが、すぐに納得したようにふむ、と言うと私の座っているデスクの向かい側に来た。
「どうやら本当に一連の事件と同じような自殺らしいな。まあ、お前さんが自殺に見せかけて殺してないのだとしたらだがな」
「あったばかりの人間を殺すような酔狂に見えるかね」
「どうだかな。どのみちこの後にみっちり事情聴取はするようだがな」
「やはり電脳をハッキングされて操られて自殺したのかね」
「まあ、タイミング的にそうだろうな。突然の脈絡のない自殺だ」
私は素早く、ここ数週間の間にこの街で起きた連続自殺事件について検索する。最初は三週間前、会社員の男性だ。それから数日に一人の頻度で自殺が起こり、これで四人目だ。被害者の職業は様々で、学生と警官までいる。全員自殺の動機は不明で遺書らしいものもなかったという。
「困ったことにどいつもこいつも脳を破壊するような仕方で自殺してやがる。それが唯一の共通点だ。おそらく脳から人格や記憶データを抽出させないためだ。おかげで動機がさっぱりわからん」
村上刑事はやれやれといった調子で頭を掻く。目の下に隈ができているのはここのところ寝ていないためだろう。
「村上警部補、被害者の身元が分かりました。被害者は木崎玲子二十五歳、ここの近くの飲食店で働く女性のようです。母親が経営者で、そこで二人で働いていたそうです。父親は既に他界していて、肉親は母親一人です」
「なるほどな。で、須藤、何で彼女はお前に相談に来たんだ」
「なんでも自分の声が頭の中に響くんだけど、それは自分のものではなくて、ここ三日それが続いてたんだそうだ。ストーカーかもしれないから調べてくれという話だった。それから詳しい話を聞こうとしたところで、彼女の麗しい顔は本棚の沁みになってしまったわけだ」
「自分のものじゃない自分の声だ? どういうことだそりゃあ。ストーカーがわざわざ女の声を合成してそれで嫌がらせをしてきたってことか。ハッキングまでして?」
村上刑事は怪訝そうに眉根を寄せる。
「さあね。詳しいことは知らない」
「とり合えずお前には署まで来てもらおうか。そこで詳しく話を聞くとしよう」
「嫌になるな」
私は心底嫌そうに顔をしかめながら、村上刑事について行ってパトカーに乗った。それから二時間ほど、私は村上刑事にこってりと絞られることになった。しかしいくら絞ろうとも被害者のことはほとんど何も知らないのだから、現場で話した以上のことが出るわけもなかった。