【第3回】 | マイナビブックス

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わが逃走

【第3回】

2016.05.13 | 佐川恭一

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 しかしそれからしばらくの間、青年は計画の遂行よりも試験勉強に追われることとなった。一回生の一月、冬真っ只中に自宅でこたつに入り、学問をする。それは青年にとって心温まる時間だった。彼と現実との距離は、あまりにも遠い。彼は現実を感じさせるものをとにかく嫌った。新聞もニュースも街行く会社員も、彼の嫌悪の対象であった。それは、自分が現実において成果を上げられる種類の人間ではないと、彼自身強く予感していたからだった。

 一般的な学問は彼を広大な思考の海に送り出してくれたが、語学だけは別であった。彼は第二外国語として仕方なく中国語を専攻していた。その講義で、中国語は今後最も必要とされる言語だ、と教授が力説していたが、彼の胸には全く響かなかった。語学は異文化圏の人々とコミュニケーションを取るという前提で学ばれるべきものだ。その予定も希望もない彼にとって、何の思考も生み出さず、現実逃避の助けにもならない語学は、ただ例文を暗記するだけの苦行となり果てていた。

 一回生の後期、ほとんどの必要単位を取得した彼だったが、中国語の点数は四十三点。再履修であった。

 

     *

 

 試験の最終日、青年は三倉と大学で昼食を取った。三倉は午前中の試験を寝過ごし、その日だけで四単位を取りこぼしていた。

「全然起きられなかったよ」

「お前、試験の日くらい本気出せや」

「目覚ましは三つかけたんだけどなぁ。無駄だった」

「アホここに極まれりやな。この後どうする?」

「試験の打ち上げしようぜ。田中も三時には終わるらしい」

「お前試験受けてへんやんけ! まあ、三時までパチンコでも行くか?」

「いいねぇ」

 二人は大学を出て、百万遍の交差点の北西にある寂れたパチンコ店に入った。この店には、よく三倉と二人で暇つぶしに来ていた。平日の昼間であったためか、中は閑散としている。そしてこの時間帯にパチンコを打っているような奴の中に、まともな人間はいない。青年はこの退廃的な雰囲気が好きだった。

「どれ打つ?」

「エヴァ」

 二人は適当な台を選び、並んで座った。初めの頃は台の回転数や、大当たり回数を見ながら選んでいたが、協議の結果、それは無意味であるという結論に至った。パチンコとは、言ってみれば出目の多いサイコロを振っているようなものである。独立試行の確率において、過去の試行は次の試行に何ら影響を及ぼさない。「最近出ていないから今日は狙い目だ」「昨日爆発してるから今日は来ない」などといった憶測は無駄である。サイコロを振り、一の目が出たあとに、続けて一が出る確率は全く変わらず六分の一なのだ。裏での操作があるにしろ、それは勘繰っても仕方のないことである。

 二人は煙草に火を点け、同時に打ち始めた。台は二人の千円札をするすると飲み込んでいく。リーチは何度もかかったが、当たりが引けない。二人の打ち出す玉の多くは何事もなかったかのように平然と流れ落ちていく。いよいよ損害額が一万円に達しようという頃、三倉が伸びをしながら言った。

「こりゃダメだなぁ。カラオケにすりゃ良かった」

「まぁ、今度取り返そうや」

 二人が店から出ると外は雲一つなく晴れており、店内とのギャップのためか突き抜けるような爽快感があった。

「こんな天気のいい日に……何やってたんや俺ら」

「ホントだな。田中呼びよせるか」

 三倉がメールを送って十分ほど経つと、試験を終えた田中が自転車に乗って現れた。

「お待たせしてすみませんー」

「試験どうだった?」

「最悪ですぅ」

「だろうね」

「受けてすらない奴が何言うてんねん」

「俺のことは置いといてくれよ。じゃあ、酒買って田中んち行こうぜ」

 三人はコンビニで発泡酒とつまみを買い、パチンコ店から五分ほど行った所にある田中の城に、揃って足を踏み入れた。そしていつも通りサッカーゲームを数試合行い、次に地球を守ろうとした二人に、田中が言った。

「今日は新作をやりたいんですぅ」

「新作って?」

「これですぅ」

 田中が取り出したのは、最近出たらしい恋愛シミュレーションゲーム「ラヴァーズ・メモリアル」だった。青年はそれまでこの手のゲームを見たことがなかった。三倉は相当に乗り気である。

「もうこれゲットしたのか!」

「試験前に買ってたんですぅ。今日まで我慢してました」

「早速やろうぜ!」

 青年は、二人がこれほどまでに昂揚するゲームとはどんなものなのか把握すべく、説明書をぱらぱらと眺めた。

「これヒロインが三人しかおらんけど、そんなもんなん?」

「フフフ……甘いですぅ。確かに従来のものより登場人物は少ないのですが、この三人、我々の接し方次第で三パターンの性格に分かれるのです。つまり九つのバリエーションを楽しめる。さらにファッションも自分の好みに合わせて変えることができるので、実際にはもっと多彩というわけですぅ」

「なるほど!」

 青年もその趣向に激しく納得し、三人の弾けんばかりの笑顔の中、ゲームが起動した。しかし次の瞬間、田中が叫び声を上げた。

「あぁーーっ!」

「どうしたん?」

「香水を買い忘れました……」

「は?」

「彼女たちをよりリアルに感じるために、部屋に香水をふる予定だったんですう」

「やめようぜそれは!」

「大体、香水なんて俺ら全然わからんやん」

「この日のために調べておいたんですぅ……うぅ……」

 田中は落ち込みながら、パソコンの横に置いてある一枚の紙を指さした。青年と三倉がそれを見ると、そこにはつらつらと香水の種類らしきものがプリントされている。

 

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