【第2回】 | マイナビブックス

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【第2回】

2016.05.10 | 佐川恭一

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 田中の部屋に入った瞬間、青年は驚きのあまり呆然と立ち尽くすこととなった。様々なアニメのポスターが部屋中の壁と天井を埋め尽くしている。ほとんどがいわゆる「萌えアニメ」に属するものだ。ベッドにはルイズなんとかという人気アニメのキャラクターの大きな抱き枕が置いてあった。「これ、一万五千円したんですぅ」田中がそれを抱き上げて顔の部分をなでなでした。元々は本棚であったと思われる棚には、ガンダムのプラモデルが所狭しと並んでいる。そしてパソコンの横には、大量のエロゲーが積んであった。床には未使用のオナホールが転がっている。

 話を聞いてみるとこの田中という男、ほとんど大学には行っていないということだった。一回生の前期での予想取得単位数は九。すでに留年のかほりをぷんぷん漂わせている。彼は一体何のために大学に入ったのか?

「自由にアニメが見れるし、自由にエロゲができるからですぅ」

 明るい笑顔でそう言い放った田中に、後光が差しているように見えた。もはや田中が神でないとする、いかなる理由も見当たらなかった。こいつらといれば極上のモラトリアム期間を過ごせるかもしれない。

「とりあえず酒でも買ってきて、ゲームしようぜ」三倉が言った。「地球を守ろう」

「賛成ですぅ」田中が元々繋がっていた任天堂64をテレビから外し、プレイステーション2に付け替えた。

 

     *

 

 一時間後、三人は田中の部屋で缶ビールを飲みながら、悪を滅ぼし続けていた。

「ここは俺に任せて、あっちを撃退してくれ」

「一人で行ったら殺されますぅ」

「大丈夫だって! 早く!」

「うわぁーー! 死にますぅー!」

 三倉と田中が叫び合っている。地球防衛軍という名のゲームだった。青年は今までに感じたことのないような圧倒的な安らぎを感じていた。明るくて、社交的で、スポーツマンで、彼女がいて、という世間一般で好まれる人間像――つまり青年が最も軽蔑する人間像――とはかけ離れた、もう一つの理想像がそこには確かに存在していた。

 青年と彼らの大きな違いは、大学に行くか、行かないかという点にあった。青年は小難しい話を聞くことに喜びを覚えるタイプの人間だった。それは彼にとって至高の現実逃避であったからだ。一方三倉や田中は、大学に何の価値も見出していなかった。「とりあえず勉強ができたから入りました」と言って、そこで何かを学ぼうという姿勢は微塵も有していなかった。

 三倉は、本質こそ青年に近かったが、社交的に見えないこともなく、スポーツは好きではないが一通りできる、という表面的には無難な男だった。彼は様々な大学の学生で構成されるテニスサークルでキャプテンを務めており、飲み会の際にサークルと関係のない青年や田中を誘った。青年はあまり気が乗らなかったが、三倉や田中がいるなら、と一度それに参加したことがある。そこで三倉は、京都大学生であることをネタにいじられていた。

「高・学・歴! 高・学・歴! 高・学・歴!」

「いやあ、そんなこと……あるけどね☆」

 奇妙なコールで煽られ一気飲みをする三倉。完全に酔い潰れ、そのあとは倒れるのかと思いきや、同じサークルの女の子ににゃおにゃおと甘え始めていた。女の子の方もまんざらではない様子だ。唾棄すべき光景を目の当たりにした青年は静かな怒りの中にいた。

「あいつ、実はただの女好きちゃうんか」

「……そうかもしれないですぅ」

「テニサー入ってるって時点で怪しいと思ってたんや」

「確かにそうですぅ」

「俺らに話合わせながら、裏ではせせら笑っとったんや」

「そんなことはないと思いますが……」

「あいつ、はめるぞ」

「え?」

「三次元の恐ろしさを思い知らせたる」

 三倉は女の子と密着し二人きりの世界を創り上げ、その中でアルコール漬けの生温かい幸福にまみれているようだった。

「高山さんみたいな子と付き合えたら、俺死んでもいいよー」

「ちょっとお、大げさですよ三倉さん」

「本当だって。俺全然酔ってないよ」

「べろべろじゃないですか!」

「そうだ、今度映画でも見に行こうよ」

「ホントに? ぜひ連れてってください!」

「何がいい? ホラーとか好き?」

「大好きです! やったぁー♡ ついに私も三倉さんとデートですね」

「俺なんかでよければいくらでも相手するよ」

 ガッデム! ファックイットオール! ステアウェイトゥヘヴン! 目の前で繰り広げられる地獄絵図に青年は湧き上がる怨恨を抑えることができず、素敵に大学生する三倉を絶望の淵に叩き落とす決意をさらに固めた。少年時代、いや、ついさっきまで心から軽蔑していたこのような人間を、今彼は信じがたいほどの憎しみをもって見つめていた。それは彼にとって不思議なことだった。

「まさか俺は……三倉が羨ましいのか?」

 この感情こそが、一般教養の哲学で聞いた「ルサンチマン」というやつなのだろうか。  

 大学での講義が頭に蘇る。

「ニーチェの言うルサンチマンとは、現実の行為による反撃が不可能な場合において、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする弱者が抱く、一種の反復感情であります」

 隣を見ると、田中は平然としている。眼前の光景にはさほど興味を示さず、ちびちびと酒を飲み、それなりに満足気な顔をしているのだ。その時、青年は思った。

「この田中の態度こそがルサンチマンの体現であり、俺の態度はまだそこに到達していない」

 ルサンチマンは周囲に対する否定から発生する。講義で例に出されていたのは有名な「酸っぱい葡萄」の話であった。

「狐は葡萄に手が届かず、『あれは酸っぱい葡萄だったのだ』と自分に言い聞かせます。ここでは価値の転倒が試みられていますが、さて、この時点でその転倒は達成されているわけではありません。まだ『言い聞かせている』という段階に過ぎないわけです。ここからさらにもう一歩進み、この狐が『甘いものを食べては身体に悪い。葡萄を食べないのが真に正しい生き方である』と考えるに到れば、単なる否定から新たな価値意識の創造へ、フェイズが移行したと言うことができます」

 そして、弱者たちがルサンチマンより創り出した価値体系の一つがキリスト教である、とニーチェは言った。田中は俺のような低次の否定をとっくに超越し、いわば田中教を自分の中に確かに創り上げているのではないか。俺は少年時代、田中と変わらぬ確かな指針を持っていたのかもしれないが、それは恐らく知識・経験の不足によるものであった。そこから数年に渡って集積された情報や経験によってその指針は大きく揺らぎ、いつの間にか常に自己肯定を繰り返さねば精神が崩壊せんばかりの危機に陥っていたのだ。田中はもうそのような危機を完全に乗り越え、自己を信仰するに到っているに違いなかった。

「しかし」と青年は思った。

「俺はやはり既存の価値体系の中で三倉を叩き落としたい。その感情は、嘘じゃないと思うから……」

 青年は田中の方を向いて、もう一度言った。

「三倉を、はめるぞ」

 田中は笑顔になった。どうやら、三倉が女の子と戯れていることではなく、その大声での無邪気なはしゃぎっぷりに気分を害しているようだった。

「それ、面白くなるなら協力しますぅ」

 面白いに決まってるやろ、と青年は不敵な笑みを浮かべた。

 

     *

 

 翌日、青年は大学の講義が終了した後、一人で田中の部屋を訪れた。

「いらっしゃいませぇ」

 田中はいつもと変わらない笑顔で迎えてくれる。この悟り切ったような表情は、一体どのような原理で生み出されているのか? 

「じゃあ、ちょっとパソコンつけてくれるかな」

 青年が言うと、田中は最新のノートパソコンを素早く立ち上げた。

「今回、三倉をミクシィで釣ろうと思うんや」

 ミクシィとは完全招待制のソーシャルネットワーキングサービスで、そこでは日記を書いたり、共通のものに関心を持つ人間同士でコミュニティを形成したりすることにより、様々な人々と交友を深めることができる。青年も田中も、そして三倉も、アカウントを持っていた。二〇〇四年当時は、フリーメールアドレスを複数持っていればその数だけアカウントを取得することが出来たため、一度潜り込んでしまえばいくらでも分身を作成できた。

「ここで架空の女の子を作る。できるだけ無名でかわいい女の子の写真をトップ画に設定して、いかにも男が構ってきそうな日記をアップするんや。ある程度形になってきたところで、三倉にメッセージを送る」

「面白そうですが、三倉君も馬鹿じゃないですぅ……引っ掛かるでしょうか?」

「そこを引っ掛けるんやろうが。俺が何のために京大現代文を勉強したのか、田中が何のためにラノベを読み尽くしたのか、その答えがここにある」

「このためではないと思いますが……」

「このためや! 現代文の勉強もラノベの濫読も、現実に活かしてこそ! ここで持てる能力を惜しまずに出し切るんや」

 そして青年は、ネットの海の中からミクシィの顔写真に使えそうな候補を探しては次々と田中の画像フォルダに保存していった。二人でじっくり吟味しようとしたが、田中が推してくるのは相当に有名な女性芸能人ばかりだった。

「この人がかわいいですぅ」

「アホかマジで! これしょこたんやろ」

「しょこたんって誰ですか?」

「オタクやのにしょこたん知らんの?」

「見たことないですぅ」

 田中は全くと言っていいほど女性芸能人を知らなかった。それは彼の二次元キャラクターに関する知識と見事に反比例していた。彼は本当に、心の底から三次元に興味がないのだ……青年は改めて田中の一貫性に感心したのだった。

 田中に任せていては一発でネカマとばれると判断し、その後は青年が一人で画像を選び抜いた。素人のような雰囲気でいて、ミクシィのトップ画にしても問題ない構図とサイズ。彼が最終的に採用したのは、黒のロングヘアーで自撮りっぽく片腕の伸びた、笑顔ではあるものの少し陰を感じさせる、二十歳の美少女だった。

「これや」

「いいですねぇ!」

「この子の画像を使って、寂しがりやで精神的に弱い女の子を演じるぞ」

「そりゃ三倉君が好きそうですぅ」

 三倉が自分や田中のような人間を友人に選んでいるのは、恐らく自分の自尊心が傷つけられる心配がないからだと、青年は読んでいた。俺や田中を、三倉は完全に下に見ている。このレベルの低いコミュニティにおいて、奴は全く気を遣ったり不意の攻撃に警戒したりする必要がなく、労せずして自分を高いレベルの人間だと実感することができる。やはり話をこちらに合わせているだけで、その実彼は非常に一般的な価値基準を持っているのだと考えることができる……

 それは青年には許せないことだった。一般的な価値基準を持っているならば、その世界の中で勝負をするべきである。彼はその戦いから逃げ、普段は自分が優越者として君臨できる世界に安住し、外のおいしいところはつまみ食いするという、フリーライドを繰り返している。フリーライダーの増加は、言うまでもなく経済に悪影響を及ぼす。これは青年の考えうる中で、最もたちの悪いポジショニングである。

 以上のことを説明したが、田中はあまり共感してくれなかった。

「もし罠にはめるなら、三倉君みたいな中途半端な奴じゃなく、本物のリア充の方が面白い気がしますぅ」

 田中は実生活が充実している者のことを、リアル充実組、リア充と呼び、それに該当しない者を非リアと呼んだ。その呼称は某巨大掲示板が発祥であろうと言われている。

「本物のリア充はええねん。ちゃんと奴ら同士でコミュニティ作って、その中でしっかりと居場所を確保してるんやからな。その労力は並みじゃないし、おそらく社交性も行動力も十分にあるはずや。三倉は社交的に見えるか?」

「見えますぅ」

「それは、俺らの基準で相対的に判断するからや。奴の社交性も、行動力も、実際には中途半端なものでしかない。それでうまくやってるつもりになってる所を、この俺が裁く。俺は新世界の神となる」

「うぅん……よくわからないですけど、面白そうなんでそれでいいですぅ」

「マジでやったんぞ。俺が絶望の淵を奴に見せたる」

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