彼は逃げた。およそ逃げうる全てのことから逃げ続けてきた。
彼のことを臆病者だとか、小心者だとか、二十二年連続チキンオブザイヤーだとか、茶化す者は少なくない。というより、親交のあった者全てにそう揶揄されてきたと言っても過言ではないだろう。
しかし、彼は自分が間違っているとは思わない。誰もが逃走を繰り返して生きているということ、それは自明の真理であると確信していたからだ。
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幼い頃、彼ははるか後に大命題として自分を悩ませることとなる人生の意義なるものについては全く思いを巡らせず、欲望の赴くままに溌剌とテレビゲームにふける、いたって健全な少年であった。特にRPGを好み、主人公のレベルを上げるだけのルーティンワークを何時間でも、何日でもこなせるという稀有な才能を持ち合わせていた。少年はRPGを発売と同時に猛烈にやり込み、誰よりも早くエンディングを見るということに一種異様な情熱を傾けていたのだ。それは登山家がマッターホルン登頂を目指す情熱と、質的にはともかく、量的に何ら変わらなかったと言わねばなるまい。それにもかかわらず、両親は彼をいたずらに心配した挙げ句無理やりサッカー部に入部させ、自分たちの夢見ていた「わんぱくで手の焼ける子供」に作りかえようとした。しかし、彼がほどなくサッカーよりもドラゴンクエストを選んでしまったのは当然の帰結であった。父はこめかみに血管を浮き上がらせながら怒った。
「一度始めたことは、投げ出したらいかん」
至極まともな大人の意見も、少年の胸には全く響くことがなかった。
少年はぽつりと呟いた。
「だって、球蹴ってゴールに入れるなんて何がおもろいんよ」
面白いか面白くないか。辛い辛くないか。それが少年の絶対の判断基準であった。サッカーを練習して上達し周囲に認められようなどという思考回路は、彼に全然組み込まれていなかった。面白くて辛くないことをやればいい。自分に負荷のかかるようなことはしない。それは少年の身体の奥深くに染みついた信念として顔の表情にも表れており、クラスメイトは「あいつ死んだ魚のような目をしているな」「いや、死んだ魚よりも生気がない」と陰口を叩いた。小学生の浅はかな陰口は数秒後に別のクラスメイトから少年自身の耳に入ることとなったが、少年は取り合わなかった。
「何を言われようがかまわない。俺はあいつより先にドラクエ4をクリアしたんだ」
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少年の歪んだ自尊心は、内向的な人間の集まる伝説の世界的陰気グループ、「南小学校漫画クラブ」にて遺憾なく発揮されることになる。彼の書く漫画は内向的な人間に対して爆発的な人気を博した。漫画の内容は、家でRPGばかりしている少年がゲーム内の主人公をレベルアップさせると、その強さが現実世界の自分にも反映されていくというあまりにも斬新な発想と設定を元に作り込まれた、非常に優れたファンタジーだった。主人公は武器や魔法を自在に駆使して、サッカー部や野球部のやんちゃくれ、ガタイの良いいじめっ子らをボコボコにし、最終的には顧問の先生を唸らせる大虐殺漫画になっていた。
「永井くんすげー!」
「天才ちゃう!?」
伝説の世界的陰気グループ「南小学校漫画クラブ」の大半を占める精神的引きこもりたちが絶賛する。みんな、自分より明らかに上等な人生を送っている爽やかなスポーツマンを内心では殺したかったのだ。
しかし少年は残念ながら、そのような卑屈な精神で漫画を描いたのではない。
実際に、自分の方が上だと考えていたのである。
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少年はゲームだけではなく、学校の勉強にも力を入れた。「内的世界に生きる人間は、誰よりも聡明であるべきだ」という彼なりの持論のためであった。どこから沸いた持論なのかは不明である。そしてそれは、ゲームをしている自分を親に認めさせるための格好の手段でもあった。彼はゲームと同じように勉強をし、塾の模擬試験での偏差値は八十五を超えた。もはや彼の実力を、その田舎の塾は正しく測ることができなかった。両親は非常に喜び自慢気であったし、少年も周囲に認められていった。彼の通う小学校では、スポーツができる者か、勉強ができる者、その二種類のわかりやすい人間がモテた。陰気だった彼も一応その例外ではなく、女子から愛を告白されたこともあったが、その全てを断った。芳しい香りをただよわせている女子などという三次元の物体はすべて信用ならぬトラップだと思っていたし、何よりゲームをする時間を取られるのを嫌った。小学校の高学年に突入した頃の彼はRPGだけでなく、ある有名な競馬ゲームを購入し、サラブレッドの配合理論を考えるのに忙しかった。
学校の授業のレベルの低さは彼をこの上なく退屈させた。そのため、彼はよく授業中に競馬ゲームの攻略本を広げ、最強の配合を考えていた。
「ノーザンテーストは使えん。サンデーサイレンスも使えん」
彼は毎時間うんうんと唸った。その姿は、算数の難問に取り組む受験生さながらであった。
「じゃあ、この問題を永井くん」
そんな彼を見て先生は気分を害し、いきなり指名することもしばしばだった。しかし彼はいつも、瞬時に問題を理解し解答を導いた。
「16πです」
「πじゃないでしょ。3・14をかけて……」
「別にいいじゃないですか、中学ではπを使うんですから」
「永井くん、今は3・14で計算するって決まりの中でやってるんだからその通りに……」
「中学でπを使うのに、今3・14を採用する合理性はありますか? ないでしょう?」
「……」
そんなわけで、彼の「授業態度」はすこぶる悪かったと言わざるを得ない。それは中学校に上がっても変わらなかった。小学校時代よりもレベルの高い塾に入り、全国模試なるものも受けたが、偏差値は七十前半を常にキープし、順位は五位以下になることがなかった。もっとも安定した成績を残していた彼はいつしか「四天王の朱雀」と呼ばれるようになり、エリア中の塾生が集まる正月特訓などでは、「あいつが永井だぜ」と周囲がざわついた。しかし彼が本気で考えていたのは受験のことではなく、オグリキャップをどのようにして最強配合理論に組み込むかということだった。
塾では成績さえ良ければ文句を言われなかったが、中学校ではやはりそうもいかない。彼は授業を真面目に聞かないという理由で、昼休みに度々担任から呼び出され、叱責された。
「あのね永井くん、中学校では勉強だけじゃなくて、集団生活の決まりや人間関係の作り方、目上の人との接し方、そういう社会に出てから必要になることをたくさん学ぶの。あなたみたいなやり方では、これから絶対に成功しないわ。それどころか、このままじゃ高校受験だって内申点不足で危ないわよ」
なんだこのおばはん、よく見ると顔がヒシアマゾンに似てるな、と彼は思った。確かに彼の内申点は、テストの点数の割には低いものだった。
「僕は私立高校を受けるので関係ありません。確実に受かります」
「そんな態度じゃ私立高校だって落ちるわよ!」
「落ちません」
彼は一向に反省の色を見せず、ひたすら成績上位をキープし、塾の私立高校受験ツアーに無料で招待され、関東から九州まで、難関高校と言われる所にことごとく合格した。担任は何も言わなかった。そして、ただ実家に近いという理由で京都にある私立高校を選び入学した。
*
高校時代の三年間について、特に語るべきところはない。彼は、男子校というむさ苦しい環境の中で真面目に三年間、受験勉強とゲームをした。少年は青年へと、身体的には成長を遂げた。そして、そのまま京都大学文学部に入学することになった。
「大学では自由にゲームができるぞ」
青年は小学校時代と変わらぬ頭で考えた。
現実はつまらない、と彼は思った。恋愛をするにしても、二次元のパーフェクトな女性の方が、三次元の何を考えているかわからない気味の悪い生物よりも数段ましだ……
前期の授業が終わり夏休みに突入したころ、彼は友人の三倉にそう語った。
三倉は、青年の属する京大文学部二組の親睦会でわたされた自己紹介カードに「麻雀が得意なのでみなさんぜひやりましょう、俺は強いよ☆」と書いていたのだが、麻雀の「雀」の字が「省」になっていたため、奇跡的に京大に合格したバカとして一躍有名になった男だった。
「全くその通りだよ!」
三倉は激しく同意した。青年は十八年生きてきて、やっと同志を見つけたような気になったのだった。できれば麻雀の「雀」が書ける人間の方が良かったが、三倉のそういう抜けたところが青年の警戒心をとき、心を開かせたのかもしれなかった。
「三倉は見込みがあるな」
「この大学じゃ、俺とかお前みたいな奴は珍しくないよ」
「どうだか。合コンばっかり行ってる奴の方が多いやろ。どうせみんな、しっかり彼女作って、しっかり就職して、しっかり結婚するんや。くだらん」
「そうかもな。でも俺の友達にはそんな感じの奴、見事におらんよ。今度誰か紹介しようか?」
「ふうん。まあ期待しとくわ」
*
次の日三倉は、農学部の田中という男を連れてきた。髪はほぼ金髪と言ってよく、その派手な外見に青年はたじろいだ。服のセンスは好みが分かれそうなビジュアル系っぽい感じだがまあ若者としては悪くはなく、顔も全然悪くないというか客観的に見て「イケメン」に分類されてもおかしくないレベルであった。このような男と友達になれだなんて、冗談も休み休み言いたまえ。
「田中ですぅ。みんなからは『神』と呼ばれてますぅ。よろしくー」
「神?」
青年は田中の変な語尾の伸ばし方以上に、「神」という単語に耳を疑った。
「なんで神なん?」
「まぁ、そのうちにわかるよ。今日は神の部屋に行こうぜ」
三倉は意気揚々とカゴのつぶれた中古自転車に跨った。青年はそれにおとなしくついて行くしかなかった。