クリエイターインタビュー 原田眞人(映画監督)


1945年、終戦へと向かう日本の姿を描いた歴史作品『日本のいちばん長い日』が現在公開されています。Creative Nowでは、戦後70年の節目にこの作品を監督した原田眞人氏にお話を伺いました。

 

原田眞人(映画監督)
1949年 静岡県生まれ。海外留学後、『さらば映画の友よ インディアンサマー』(1979年)で監督デビュー。社会派エンターテイメントの『金融腐食列島 呪縛』(1999年)、『クライマーズ・ハイ』(2008年)から最近の『わが母の記』(2012年)や、モンテカルロTV映画祭最優秀監督賞、国際エミー賞の最終候補となった『初秋』(2011年)など小津安二郎作品に深く影響された家族ドラマまで、様々なジャンルの作品を手掛ける。『突入せよ! あさま山荘事件』(2002年)で、日本アカデミー賞10部門受賞を果たし、『わが母の記』でモントリオール世界映画祭審査員特別グランプリを受賞。俳優としてハリウッド映画『ラスト サムライ』(2003年)に出演。2015年は『駆込み女と駆出し男』に続いて、最新作『日本のいちばん長い日』が現在公開中。

 

──戦後70年の節目に公開される『日本のいちばん長い日』は「日本の終戦」そのものを描いた非常に重要な作品です。

 

「これまでの映画のプロモーションとは、全く違う手ごたえや反応がありますね。みなさんの関心の高さというのがあるので、自分自身も取材で話す内容に対してもすごく神経質になっているということがあります。そういう面でも今までとは全然違いますね」

 

──『日本のいちばん長い日』は1967年に岡本喜八監督により一度映画化されていますが、まったく違う印象の作品になっています。

 

「僕は岡本監督のファンで封切時に観ていますが、あの映画に対しては疑問もありました。当時、昭和天皇を中心に描けないのは仕方ないと思うのですが、戦争を始めた一番の張本人である東条英機がどうしていたのかが描かれていなくて。戦争を終わらせるための映画だったら、戦争を始めた人間がどこでどうしていたのかを描かなければ仕方ないと思うんです。そういう疑問がありました。また、岡本監督版では8月15日の一日だけを描いていたので、僕はその日に至る過程をしっかりと描きたかったんです。映画監督になってからも、自分ならこの作品をどう撮るのか、考えていたりもしました。改めて原作を読み返して、この作品は昭和天皇をしっかりと描かなければ成立しないと確信しました」

 

──天皇陛下を映画の中で描くというのは、挑戦的ですし困難を伴うことだったのではないでしょうか。

 

「2006年に映画『太陽』が封切られたことで、昭和天皇を描くことも可能だと感じたんです。ただ、あの作品のカリカチュアライズされた気品の感じられない昭和天皇の描き方には、不満がありました。僕は自分の作品で昭和天皇を愛すべき人物として、終戦時の実像を描きたいなと思いました」

 

──具体的にどのような昭和天皇の姿を描きたかったのでしょうか。

 

「戦争を終わらせた責任は天皇にある。それは原爆が戦争を終わらせたのではなく、昭和天皇の聖断によって、それを導くようにした鈴木貫太郎首相と阿南惟幾陸相、その三人がいなければ戦争を終わらせられなかった。そこをはっきりとさせたかったですね」

 

映画『日本のいちばん長い日』
1945年7月、連合国は日本に対してポツダム宣言の受諾を要求していた。戦況が困難を極めるなか、内閣や軍部の人々はそれぞれの立場から日本の未来のために奔走するのだった。1945年8月15日、日本はどのようにして終戦を迎えたのか、その道程が描かれる。
(C)2015「日本のいちばん長い日」製作委員会

 

──本作は群像劇ですが、その中で主人公ともいえる阿南陸軍大臣は非常に複雑な人物として描かれています。

 

「阿南は戦いたいか戦いたくないかといえば、戦いたいわけですよね。だけど戦ってはいけないんだという、もう一人の自分も居て。戦いたい理由として、次男が戦死しているわけで、今度は自分が育ててきた軍人たちが、本土決戦へ走っているというところに乗って行きたい気持ちを抑えているという。そういうアンビバレンツを抱えていた軍人像として阿南を描きたかったんですね」

 

──家族だけでなく、部下や周囲の人々に対しても非常に愛情深い人物としても描かれていました。

 

「楠木正成が後醍醐天皇を守って一族が滅びたときに、天皇をロイヤリストとして崇めていましたよね。家族を大切にしようと思えば、天皇も守らなければいけない。阿南もそういう考え方と同じで、天皇陛下を家長として崇めていた。ただ、この映画はそれだけではなく、別の見方をすると、もっと濃密な家族的な交流があって、その中では鈴木貫太郎首相を父として、阿南を長男、昭和天皇を次男とするような、擬似家族として成り立つというところが、この映画の一つのキーですね」

 

──本作ではアクションパートとして、昭和天皇の玉音放送を阻止しようとする陸軍青年将校たちの姿も描かれています。

 

「あの時代に生きていて、ああいうところに追い込まれたら、普通の人間でもこういう形になるかなあと。僕は畑中というのは決して狂気な人間だとは思っていませんし、むしろ純粋でね。その中で、他の連中は畑中の純粋なところについていった人間もいますし、彼らの思いを少しでも拾って描きたかったという思いがありました」

 

──この作品が今年、このタイミングで公開されるということにも、非常に大きな意味があるような気がします。

 

「以前から監督したかった題材なのですが、たまたま戦後70年というタイミングで松竹が手を挙げてくれたので実現しました。いま日本の内閣によって色々きな臭いことが起こっている中で、若者たちは戦争に行きたくない、行かないぞという思いも含めて、そういうものと上手く連動するものがあるのかなと思います。タイミング的にもこれが最後の機会だったかもしれません。戦後80年となったらこういう映画が作られないで、このままいってしまうと日本はどうなってしまうかわからないわけで、この映画が公開されることで、もう一回自分たちのいる日本の1945年8月はどういったものだったのか、考えてくれる若者が増えるのではないかなという期待も持っています」

 

──今、戦後80年のタイミングでは映画にはならなかったかもしれないという発言がありましたが、原田監督にとって、撮りたい題材と時代が上手くリンクした実感があるのでしょうか。

 

「そういう意味では、本作には運命的なものを感じますね。恐らくですが、(俳優として出演した)『ラスト サムライ』に出なければ、楠木正成のことも考えなかったでしょうし、そのコンセプトがなければ今回、人を共感させられるような脚本は書けなかったと思います。また、本作は京都を(撮影の)ベースにしなければ作れなかったと思います。前作の『駆込み女と駆出し男』を京都で撮影をしていたことがあって、うまい具合に流れがあって(本作に向かって)積み上げられてきたものがあるなと感じています。僕自身のキャリア的にも、40代でも50代でも駄目で、『今のこの年齢だからやってもいいか』、ということを天の上の誰かが考えたのかもしれないなみたいな、そういうような流れは時々意識しますね(笑)」

 

──これからどのような作品を撮っていきたいのでしょうか。

 

「『日本のいちばん長い日』が成功すれば、僕の中では終戦3部作を監督したいという気持ちがあるんです。今回は制作費の関係で割愛せざるを得なかったのですが、原爆投下の決定に至るポツダム会談を描きたいわけですね。ポツダム会談では日本の無条件降伏のことばかりが話し合われたように思われていますが、実際はそうではないという話があります。ちゃんとそれぞれのキャラクターを濃密に描いたものはないので、今回この映画を作るにあたってそこを調べたとき、これは次に、もしくは次の次に撮りたいなと思いました。もう1作はGHQによる日本国憲法作りに関する映画です。本作を含めて、1945年の7月8月それから憲法作りまでのところを俯瞰できる3部作を作りたいなという、今作はその第一弾だという考えがどこかにはありますね。次回作は時代劇が決まっていますので、その先ですね」

 

作品について語る原田監督。
インタビュー撮影 土屋久美子

 
映画『日本のいちばん長い日』は全国公開中です。

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